すぐ怒鳴る人を実はまるで恐れなくてもいい理由 行為から他者の本質を見極めることの大切さ

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フロムは、愛は技術であり、技術であるならば、知識と努力が必要だといっている。ところが、多くの人は、愛をこのようなものとは考えない。愛は対象の問題であると考える。即ち、愛するのは簡単だが、愛する、あるいは愛されるにふさわしい相手がいないというわけである(フロム『愛するということ』)。その点、国を愛するのは、対象がはっきりしている。したがって、国を愛することはたやすいことであり、当然のことであると考える。そうなのだろうか。

ここでそのようなことは当然のことであるとして自分で考えることを止めるとする。巧みな仕方で説得されて、考えることを止めるということもあるだろう。ともあれ、いつの間にか、言葉の本当の意味を考えようとはしないで、言葉に麻痺してしまった人は、その言葉が対応する事実を確かめなくなってしまう。そして、いわば名目としての言葉だけが一人歩きし、本来、名目でしかなかった言葉が、実在の仮象を与えられる。

言葉はサインとしてもシンボルとしても機能する

言葉にはサインとして機能する場合とシンボルとして機能する場合がある(藤沢令夫『イデアと世界』)。前者は、言葉と事物との二項関係であり、言葉と事物は直結する。他方、後者では言葉と事物は直結せず、想念や観念が介在するという意味で、言葉、事物、観念(想念)の三項関係である。

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言葉はサインとしての機能を超える。シンボルとなることで初めてオノマ(名前)だけでなく、ロゴス(理)となることができる。このシンボルとしての言葉においては、言葉と事物は直結しない。言葉を聞いた時にわれわれが理解するのは事物そのものではなく、互いの考えである。想念や観念が介在し、三項関係が成立する。サインとしての言葉の場合は、それが指示する言葉が対応するが、シンボルとしての言葉は事物や状況から独立した領域を持ちうる。

だから、追い詰められれば人は噓をつくこともでき、小説家は創作することができるのだが、シンボルとしての言葉が三項関係であることの問題は、現前する事物や状況とは関係なく、言葉だけがいわば一人歩きし、言葉が実体化することだ。

「愛」というものはない。実際には「愛する」という行為しかない(フロム『生きるということ』)。愛国心や正義という言葉も、それがどういう行為なのかが検証されることなく、強制され、愛国心や正義という言葉のためにどれほど多くの人が殺されてきたことか。

岸見 一郎 哲学者(監修)
きしみ いちろう / Ichiro Kishimi

1956年、京都生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋古代哲学史専攻)。専門の哲学(西洋古代哲学、特にプラトン哲学)と並行して、1989年からアドラー心理学を研究。著書に『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健と共著、ダイヤモンド社)、『幸福の哲学』(講談社)、『今ここを生きる勇気』(NHK出版)、『ほめるのをやめよう リーダーシップの誤解』(日経BP)など多数。

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