すぐ怒鳴る人を実はまるで恐れなくてもいい理由 行為から他者の本質を見極めることの大切さ
「これはぼくは、一種の精神的な波長が合ったみたいなものだろうと思ったのです。それだけ自分が物語のなかでノモンハンということにコミットしているから起こったと思ったのですね。それは超常現象だとかいうふうに思ったわけではないですけれども、なにかそういう作用、つながりを感じたのです」(河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)
この話を聞いた河合は言った。
「そういうのをなんていう名前で呼ぶのか非常にむずかしいのですが、ぼくはそんなのありだと思っているのです。
まさにあるというだけの話で、ただ、下手な説明はしない」(前掲書)
また『源氏物語』の中にある怨霊などの超自然性について、そういったものは現実の一部として存在したものか、とたずねる村上に、河合は「あんなのはまったく現実だとぼくは思います」(前掲書)と答えている。
こんなふうに「そんなのあり」といって片付けてしまえば、どんな話もそこで終わってしまう。これは言論(ロゴス)の封じ込めにほかならない。流行りすたりがあるがスピリチュアルな現象に関心が向けられることがある。霊的な現象については、それについて議論することなく、ただ「ある」といっているように見える。ここには死を前にしてなお徹底的に魂の不死について議論したソクラテスたちはいない。生と死の絶対の断絶を説かない人の言葉は無批判に受け入れられる。
例えば、キューブラー・ロスは「死とはこの人生からべつの存在への移行にすぎない」といっている(『永遠の別れ』)。死んでも無になるわけではなく、今生きているのと変わりがないといわれたら、死を恐れなくていいと思う人がいるかもしれない。今、苦しくてもあの世では救われるというのも同じである。誰も生きて死を経験することはできないのだから、死が生とは絶対的に違うものであるとは考えないで生の延長と考えてしまうと、苦しみから逃れるために自らの命を絶とうと思うかもしれない。
言葉がシンボルたるがゆえの可能性と危険性
今あげたような事柄についてなら、無批判に受け入れない人も多いかもしれない。しかし、国を愛することはこの国に生まれたものとして当然のことだといわれた時、そのことを自明のこととして受け入れないということには、抗しがたい力が働くことがある。しかし、ある国に生まれたからといって、自分が生まれ育った国を必ず愛せるわけではないし、強制されて愛するものではないだろう。国を愛せるにはそもそも愛するとはどういうことか考えなければならない。