供給面の政策から需要面の政策へ
しかし、日本経済が成長するにつれて、こうした状況は徐々に変化してきた。つまり、供給面の施策は不要になってきたのだ。
それを最初に劇的な形で示したのは、特進法(特定産業振興臨時措置法)の挫折だ。これは、鉄鋼(合金鉄・特殊鋼・電線)、石油化学(化学繊維)、自動車(乗用車・自動車タイヤ)を特定産業に指定して企業の集中・合併を進め、政府が税制・金融面で援助するというものだ。63年から64年にかけて国会で審議されたが、審査未了のまま廃案となった。
挫折した基本的な理由は、金融支援などの政府関与が、産業の発展にとってもはや最重要ではない時代になったことだ。通産省はそうした時代の変化を認識できなかったのだ。
もっとも、供給制約の緩和は、石油ショック後の混乱によって覆い隠されてしまった。石油ショックは供給面でのショックであり、供給面の条件が再び重要になったのだ。
しかし、長期的には、供給面での制約緩和傾向は引き続いていた。そのため、それまで設備投資資金供給で重要な役割を果たしてきた長期信用銀行の必要性は消滅しつつあった。それにもかかわらず、存続のために不動産融資に傾斜したことが、80年代後半の不動産バブルを引き起こした基本的原因である。
内需喚起でなく外需増加策が行われた
80年代以降においては、より積極的に需要拡大政策が必要になった。それは、国内の需要が飽和してきたからだ。ただし、実際に行われたのは、ケインズが想定したような内需の喚起ではなく、為替政策を通じた外需の喚起であったことに注意が必要である。
「90年代に内需喚起を目的として建設公債の増発による公共事業増額が行われた。それが財政赤字拡大の要因である」と言われる。しかし、これは現実に起こったことの正確な記述とは言えない。