元レンタル彼氏「大学で男の生きづらさ研究」の訳 ネオヒューマンに見る「利他的な愛」という希望
僕は、自身の性格と社会の風潮とのギャップや「レンタル彼氏」での経験を通じて、当事者として「男らしさ」というものを背負っていたことから、男性性や、若年男性の生きづらさについて研究しています。
よく男性学ではこう言います。父親であり夫である多くの男性は、会社での仕事や、一家の主として家庭を守らなければならないという連関したプレッシャーを受けている……なおかつ将来を見据えての住宅ローンや教育ローンなど、かなりの十字架を背負うことにもなる。
欧米諸国では、たとえば聖書のなかに愛についての言及があり、神さまの視点から「愛とは」を知り、心の支えにすることができます。しかし、多くの日本人にとってはそういった視点からの発想がありません。かけがえのない自分をぎゅっと抱いてくれる超越的な存在を持っていないのです。これはある種の日本の文化でもありますが、無からの呪縛であるとも思います。
近年、『さよなら、男社会』『「非モテ」からはじめる男性学』『男性性の探究』など「男らしさ」についての問題を取り扱った本が多く出版されていますが、実は日本では90年代から、男性学という学問がありました。
欧米では日本よりも早く、70年代から研究が行われてきました。アメリカではオイルショックによって失業者が増え、男性の「一家の主」という像はもはや崩れ落ち、それまでの「当たり前」が叶えられなくなりました。そこで「男らしさ」を見直すべく男性学が立ち上がったのです。
一方で日本は、オイルショックを「減量経営」によって“男らしく”耐えました。その流れを引き受けてバブルを迎えましたが、90年代にとうとう崩壊。そして、アメリカなどから20年ほど遅れて、日本でも「男らしさ」の問題が立ち上がってきたのです。
日本は「男らしさ」をうまく使って経済発展するように、社会制度や法律が後押ししていました。「24時間戦えますか」という栄養ドリンクのCMでのフレーズは、このような社会的風潮をうまく捉えています。つまり、日本の戦後からの半世紀はまさに「男らしさ」と結びついていた。しかし、その陰で、過労死や自殺率は男性のほうがずっと高いという状況が続いてきたのです。
言語化できない苦しみと、生きづらさ
男性学や、男の生きづらさというものが言葉になって語られる以前は、男性にとってのつらさは“名前のついていない”生きづらさでした。
「男は泣いてはいけない」「弱みを見せるな」などという性規範に縛られている人は今でも多くいます。すごく苦しいけれど、弱みを見せる場所も、悩みを打ち明ける仲間もおらず、自分のなかでも言語化されていないという人が多いのです。
モヤッとして常になにかが苦しいけれど、自分がなにに苦しんでいるのかがわからない。これは厳しい状態です。ピーターさんも、自分がALSだと診断されるまで、かなり苦しんだ経緯を書かれていますが、自分の抱える問題に名前がついた瞬間に「ああ、自分はこういう症状だったのか」とわかって、希望を見出す描写があります。
「男らしい」のもいいけれど、「男らしくない」のもまたいい。「男らしくない」と同義のポジティブな名前はまだありませんが、これは優劣なんかではなく、個性と捉えたいところです。
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