「大抜擢をされた男」聖徳太子はなぜ出世したのか 30歳くらいがターニングポイントだった?

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今でも女帝は「中継ぎ」にすぎないといわれることが多いが、それは誤りだろう。その登場自体が、実は能力重視の抜擢の結果だったからだ。

さて、そうなると、こんどは女帝を補佐する、かつてのキサキの役割を果たす人物が必要となる。政治的な実力を買われて大王になった推古が、みずからのサポート役として抜擢したのが彼女の甥、厩戸皇子だった。

女帝の政治を輔佐するには、血筋よりも何よりも、あくまで実力が重視されたのだから、このとき厩戸が起用されたのは、彼がそれだけの評価に値する人物だったからにほかならない。彼の知られざる20代は、このような評価を準備する充実した研鑽の日々だったのだろう。

中国・朝鮮情勢の緊張

ところで、厩戸はいったいどのような役割を期待され、「入閣」することになったのか。これに関しては、彼が国政に参画するようになったのを機に、斑鳩の地に宮殿の造営を開始していることが手がかりになる。

推古女帝や大臣の馬子が本居を構えていた飛鳥(現・奈良県高市郡明日香村)やその周辺と異なり、斑鳩は当時の国際玄関口である難波の地と大和川や竜田道でつながっていた。斑鳩は難波を介し中国や朝鮮半島と直結していたといえよう。

厩戸が入閣とともに、官邸とも言うべき宮殿を飛鳥周辺ではなく斑鳩の地に造営したということは、彼に期待された役割がズバリ外交だったことを物語っている。冠位十二階や憲法十七条は、昔から厩戸が制定したといわれてきたが、その証拠はない。むしろ彼は推古・馬子を中軸とする政権に外務大臣として「入閣」したと見られる。斑鳩宮はいわば、外相官邸だったのだ。

厩戸が外相に就任したのは、中国を中心とした東アジア情勢が大きく動き始める時期に当たった。

6世紀末期、およそ300年近く分裂状態にあった中国にようやく統一政権が誕生した。これが楊氏が興した隋帝国だ。隋の皇帝をはじめ、中国歴代の皇帝たちは天の命令(いわゆる天命)を受けて全世界を支配する絶対的存在と自任していた。だから、隋の出現によって周辺諸国とくに朝鮮半島の3国(高句麗・百済・新羅)はそれへの対応を迫られ、緊張が一挙にみなぎった。

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