「大抜擢をされた男」聖徳太子はなぜ出世したのか 30歳くらいがターニングポイントだった?

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

また、「録摂政らしむ」という記述から、当時すでに「摂政」という公的なポストが存在したかのように受け取られてきた。だが、この個所は単に「政を録摂させた」と述べているのである。「録摂」には「まとめる」「統括する」の意味があった。後に藤原氏が独占した、天皇権力を代行する摂政という地位とはおよそ無関係だ。

厩戸は推古女帝の即位とともに抜擢されていたのか?

厩戸が抜擢された地位が何であったかという問題以外にも、『日本書紀』の記述には疑問がある。それは、推古女帝の即位とともに厩戸が抜擢されたかのように記している点だ。もしそれが事実であるならば、574年生まれの厩戸皇子は当時数え年で20歳である。この若さで、本当に国政に関与することができたのだろうか。

確かに厩戸の血筋は抜群だった。彼は、6世紀前半に即位して32年も在位した偉大な大王、欽明天皇の孫であり、欽明の息子、用明天皇の皇子であった。

それだけではない。厩戸の両親はともに母親が蘇我稲目の娘であり、彼は蘇我氏の一員といってもよい存在だった。蘇我氏は6世紀前半に稲目によって興された新しい氏族だったが、その族長は大臣(今日の総理大臣に相当する)として、当時の宮廷で最大の実力を誇っていた。

しかし、当時はたとえ血統がよかったとしても、また能力・資質に申し分がなかったとしても、それだけでは大王はおろか大王候補にもなれない時代だった。政治上の経験の有無だけでなく、人格的な成熟度や年齢などが厳しく問題とされたのだ。ある天皇の直系の血筋を引く者ならば、幼少であっても、また人格や資質に多少問題があったとしても、即位することができた後の時代とは大きな違いがあった。

年齢という点でいえば、この前後の時代は、大体30歳くらいにならないと、政治的にも人格的にも成熟しているとは見なされなかったようである。この前後の大王や天皇のうち年齢のわかる例について、即位した年の平均値を調べてみると、大体30歳前後になるという。

したがって、弱冠20歳の厩戸がどんなに血筋がよかろうと、能力・資質にめぐまれていようと、彼が593年段階で大抜擢を受け国政に加わったとは考えがたいのだ。では、彼が実際に国政に参画したのは、いったいいつのことだったのか。

次ページそのヒントも『日本書紀』に
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事