「大抜擢をされた男」聖徳太子はなぜ出世したのか 30歳くらいがターニングポイントだった?
私たちの祖先が難局に直面したとき、それを打開するために、いったいどのようにして人材の発掘や登用を行ったのだろうか。また、政府などの組織をより強力かつ円滑に運営・維持するために、勤務評定や昇進のシステムにどのような創意や工夫を加えてきたのだろうか。
さらに、「人事」をめぐって形成される派閥には、時代や集団によってどのような違いや特徴があったのだろうか。
これらの問題を時代ごとに、できるだけ具体的に解き明かしていこうというのが、本書の狙いである。このテーマを掲げて、最初に取り上げねばならないのは、やはり何といっても聖徳太子だろう。彼こそはわが国における「異例の抜擢」の確実な最初の例だからだ。
「摂政」ではなかった
後に聖徳太子と呼ばれることになる厩戸皇子が歴史に登場するくだりに関して、『日本書紀』は次のように述べている(原漢文)。
これは、西暦592年12月、わが国最初の女帝である推古天皇(額田部皇女)が即位した翌年4月の出来事とされている。
この記述から、厩戸は実の叔母にあたる推古女帝の「皇太子」とされ、同時に政治を総裁する「摂政」に就任したのだといわれてきた。
しかし、「皇太子」(唯一の皇位継承予定者)という地位が正式に成立したのは、実はこれよりも約100年後のことである。厩戸の時代には、大王(天皇は当時まだこのように呼ばれていた)の候補者はたいてい複数名いたのであり、厩戸も有力な大王候補の1人にすぎなかった。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら