「大抜擢をされた男」聖徳太子はなぜ出世したのか 30歳くらいがターニングポイントだった?
わが外相厩戸は、朝鮮3国の為政者たちと同様、隋を中心とした東アジア世界のなかで自国をどのように位置づけ、自国の権益をどのように拡大・強化するか、という課題に取り組んだ。それは具体的には、朝鮮半島南部、新羅と百済に東西から挟まれて存在した伽耶(現・韓国の慶尚南道)問題だった。伽耶は小国の寄せ集まりで、6世紀の半ば過ぎ、ついに新羅に併合されてしまう。倭国(日本の国号は未成立)はこの伽耶の一国、任那国(金官国ともいう)に自国の権益があるとかねてより主張していた。
だから倭国は、伽耶を併合した新羅に対し、伽耶にある自国の権益を引き続き保障せよとの外交的要求を突き付けた。こうして新羅が、倭国に不承不承差し出したのが「任那の調」だ。それは、かつて任那国から大王に献上された品々(特産物)だった。
倭国へ献上を怠る新羅に対して厩戸がとった戦略
ところが、その後、新羅は次第に「任那の調」の献上を怠るようになる。倭国はそれに対し、時に軍事的な威嚇や実際の出兵などの手段に訴えたが、なかなか功を奏さない。厩戸外相も当初は軍事力に訴える旧来の方式を採用したが、さすが大抜擢を受けた逸材だけあって、やがて発想を大転換するに至る。
それは、新羅をはじめとした朝鮮3国がすでに従属し、朝貢していた超大国の隋に働きかけ、倭国が新羅の上位にあることを認めさせるというものだった。これが遣隋使だ。隋帝国の圧倒的な国力に依存して、自国にも他国にも損害や犠牲を出すことなく、その外交的要求を達成しようとしたのだ。この外交戦略は一定の成功を収めた。
608年、隋の使者、裴世清が推古女帝の宮殿、小墾田宮を訪れた。そして、610年には新羅はわざわざ任那の使いを伴って朝貢してきた。外相厩戸の得意のときだった。
しかし、それから8年後に隋は滅び、倭国は再び自力で新羅に対して「任那の調」の献上を強制しなければならなくなる。
そして、外相厩戸皇子は、隋に代わった唐との国交樹立を模索する最中、621年に斑鳩の官邸で不帰の客となった。
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