「大抜擢をされた男」聖徳太子はなぜ出世したのか 30歳くらいがターニングポイントだった?

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そのヒントも『日本書紀』に隠されている。『日本書紀』を見ると、厩戸は601年2月から斑鳩宮の造営を始め、605年10月にはこの宮殿に移っている。このとき、彼はすでに32歳である。

斑鳩宮というのは厩戸の住まいであり、同時に彼が所有する膨大な財産を管理・運営する機関(いわゆる家政機関)の所在地でもあった。それは、現在の奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺の東院(夢殿を中心とした一画)の周辺にあったことが発掘の結果わかっている。

王族であれば誰でも、このような宮殿を営むことができたかといえば、決してそうではなかった。王族のなかで政治的にも王位継承のうえでも有力な存在と目されていた、同じ母から生まれた兄弟のうち最年長の男子(大兄皇子)だけが、基本的には斑鳩宮のような宮殿を営むことが認められていたのである。

このように、600年を過ぎ、厩戸が30歳くらいになった頃、彼の地位や身分に大きな変動があったことは明らかだ。厩戸が国政に抜擢されたのは、まさにこの頃と見るのが妥当だろう。彼はいわば壮年に達し、有力な王位継承候補ということで、推古と大臣の蘇我馬子(稲目の息子)を中核とする国政に正式に加わることになったと見られる。

推古女帝の実力人事

ところで、このように、有力な大王候補の王族が国政の中枢に入るということが、これ以前からあったかといえば、どうやら、そうではなかった。厩戸抜擢の背景には、わが国最初の女帝、推古の登場という出来事があったようだ。つまり、推古女帝の登場なくして、厩戸の抜擢もありえなかったといえよう。

推古は、夫である敏達天皇のキサキ(当時は漢字で大后と表記された。後の皇后に当たる)の地位にあった。キサキといえば、大王の単なる正妻と思われがちだが、当時はそうではなかった。それは、大王の政治をサポートする公的ポストだった。推古はほかならぬそのキサキとして政治的な経験と実績を積み上げ、それが大いに評価されて、敏達没後に即位することになったわけである。

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