江戸時代の庶民「家賃相場」はどれほどだったのか 落語に登場する庶民が住んでいた集合住宅

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使用人を雇うゆとりがない武士は、顔見知りの人や近所の商人に頼んで代行してもらう。もちろん、代金は払う。襦袢の洗濯を頼んで20文(600円)というから、商家のおかみさんもアルバイト感覚だったのかもしれない。

裁縫も同様で、縫物を専門にしているプロ職人もいるし、近所の女性にお願いすれば、安価ですんだかもしれない。ただし、下級武士や長屋住まいの町人は、現代人に比べて極端に持ち物が少なかったので、掃除はごく簡単で、人を頼む必要はなかった。

江戸に暮らす武士たちの住宅事情

幕府とはもともと、将軍の居場所という意味である。それが転じて武家政権のことを指す。つまり、江戸幕府は元は軍事政権であり、武士が政治をおこなった。政治の中心地である首都江戸には、必然、多くの武士が住んだ。江戸時代中期にあたる元禄年間(1688~1704)には、江戸は百万人の人口を擁する都市であり、その半数が武士であったとされる。

そんな彼ら武士が住んでいたのが、拝領屋敷である。拝領屋敷とは、江戸幕府から大名や旗本が拝領した屋敷のことで、たとえば、現在の東京大学本郷キャンパス(文京区)は、江戸時代、加賀前田家が将軍から与えられた場所であった。

前田家は、広大な土地を将軍家からただでもらっていた。しかも、土地は1カ所だけではなく、小さな藩でも2カ所、 大藩になると、3カ所の広大な屋敷地を与えられた。ただし、与えられるのは土地だけで、上物は自分で造らなくてはならない。また不祥事を起こして、家がお取り潰しになれば、与えられた土地は取り上げられた。

屋敷地は幕府から指定された場所で、自分の希望する場所はもらえなかった。幕閣として働く老中などの役職に就いた者は、日々登城できるよう江戸城の近くに、関ヶ原の戦い後、徳川家に従った外様大名は城から遠くに与えられた。

幕府の要職から外れれば、江戸城から離れたところに引っ越さなければならないこともあった。与えられた屋敷とは別に、大名が買い取りした屋敷を大名同士が話し合い屋敷地を交換し合う「相対換」や、農民から郊外の土地を買い取って「抱屋敷」と呼ばれる屋敷を構える大名もいた。

大名屋敷には、大名だけでなく、家臣たちも暮らしていたが、その人数は、軍事上の理由などから機密扱いであった。

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