江戸時代の庶民「家賃相場」はどれほどだったのか 落語に登場する庶民が住んでいた集合住宅

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

幕臣である旗本は、江戸城防衛もあり、搦手(裏手)にあたる半蔵門周辺(千代田区)などに屋敷が配された。御家人の場合、自分が所属する組単位で屋敷地を拝領することもあった。現代の公務員官舎のようなものである。

ただし、官舎は集合住宅が大半だが、当時は庭付き一戸建てで、庭で野菜を栽培して家計の足しにした。旗本の中は、庭の一角をこっそり人に貸す人もいたという。また、組屋敷全体で、傘張りや朝顔栽培といった内職を請け負うこともあった。組単位の拝領地は、今も御徒町(台東区)など駅名として残っている。こうした武家地は江戸の7割を占め、武士たちは家賃無料で住んでいたのである。

江戸に暮らす庶民の住宅事情

さて、2割部分に町人たちは住んでいた。町人地は、徳川家康が江戸に入府した時に従った奈良屋、樽屋、喜多村の町年寄三家がトップとなり、彼らの下に町名主、家持、家主といった町役人がおり、自治をおこなっていた。町年寄は名字帯刀を許され、将軍にも謁見できるという、武士と同等の扱いを受ける名誉職である。幕府は町年寄にも拝領屋敷を与えたが、彼らは武士の場合とは違い、600両(7200万円)の地代を払っていた。

町人もさまざまだが、落語に登場する庶民の代表格「熊さん」が住んでいたのは、俗に裏長屋といわれるところで、表通りに面していない場所に建てられた集合住宅であった。

裏長屋の間取りは、間口九尺(約2.7メートル)、奥行二間(約3.6メートル)の俗に九尺二間が一般的。入口には三尺の土間があり、ここにかまど小さなへっつい(竈)と流しがあった。トイレは長屋の隅にある共同便所を使用し、風呂は湯屋に行く。

令和時代の物件と比較すると、狭いうえに風呂もトイレもないので、とても不便なように感じられるが、昭和40年代(1965年~)頃の学生の下宿は、三畳や四畳半一間で風呂なし、トイレ、台所は共同が一般的だったから、それよりはましだったのかもしれない。

時代や立地によって違いはあるが、この間取りで文政年間(1818~1830)なら、1カ月、800文(2万4000円)から1000文(3万円)ほどだった。家賃は今と比べれば、安かったといえるだろう。それでもまとまった家賃を払うのが困難な人もおり、日割りで払うこともあったという。

次ページ武士たちのために整備したものを町人も使用した
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事