日本人は昔から働き者?知ると深い「江戸の労働」 下級武士は「2日勤務1日休日」でも忙しかった訳
なお、明治時代になると、新政府に関しては就業規則が定められている。明治新政府の法規が掲載されている『法規分類大全』によると、1868年1月9日に「総裁以下は午前10時頃に参集し、11時から13時に評議のこと」とある。このとき出勤時間と会議の時間は記されているが、退出時間は記されていない。そこで、その約1カ月後には「連日、巳刻参集、申刻ヲ限リ退出之事」と決められた。午前10時ごろに出勤し、午後4時前後に帰っても良いとされたのである。約6時間勤務ということになる。
明治2年になると、10時に出勤し、午後2時に退出と定められた。約4時間勤務である。これは、江戸時代における役人の勤務形態(時間)にならったのではないかとの説もある。
その後、明治6(1873)年には午前9時から午後3時(もしくは4時)、明治25(1892)年は午前8時から午後4時となった。
明治初期の官庁の休日は、毎月1日、6日、11日、16日、21日、26日(一六どんたく、どんたくとは休日の意味)であった。明治9(1876)年には日曜日が休日となる(土曜日は正午まで仕事)。そして大正時代、昭和も戦前までは、ほぼ似たような勤務形態であった。
商人はプライベートも規制されていた!
ここまでは主に江戸時代の武士について見てきたが、農民はどうだったのか。農民の休日は、幕府の役人のように決まったものではなく、地域によってバラバラであった。
美濃国(今の岐阜県)の楡俣(にれまた)村の枝村、西条村(現・岐阜県輪之内町)などは、正月や節句、農休み、祭礼などの日が休日であった。年間約25日の休みがあったという。年間30日や80日の休みがある信州の農村もあった。江戸時代の農村は、それぞれの村が休日を定めていたのである。いずれにしても、農民の休日は少なかったといえよう。それは明治になっても同じであった。
商人はどうか。江戸時代の商家においては、手代(商家の使用人)の勤務時間を厳しく管理する事例があった。例えば、三井においては、手代の副業を禁止し、仕事でも私用でもどこかに出かけるときは、帳面に時間を記入して出かけることが決められていた。
正月以外の碁・将棋・謡の禁止ということも定められ、規制はプライベートにまでおよんだ。時間規律に違反した者は有給休暇を取り上げられることもあった。商家の手代の長期休暇としては里帰り制度(登り)がある。
呉服問屋・白木屋の場合は、入店後9年目に初登り50日、16年目に中登り60日、22年目に三度登り60日の規定であった。しかも、道中の装束や持参のみやげ物、餞別にまで決まりがあった。プライベートでも、自由な余暇旅行をさせてもらえなかったのだ。
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