人の限界を超えるテクノロジーは「神への冒涜」か ネオ・ヒューマンと「人工流れ星」で考える科学
「生命はDNAを受け継いでいるただの入れ物である」という表現もあります。科学者の方々とお話しすると、やはり、人間は何億年か後には、情報の伝達のみになるのではないか、人間とは、生命とはなんだろうねという話になります。
ピーターさんがなさっていることも、最終的には脳と情報のみの世界で生きるというものですから、私には、何億年も先の未来の人類へと続く、生き物としての進化の分岐点のように見えました。
人工物は、「神への冒涜」か?
『ネオ・ヒューマン』のような話を見聞きすると、恐らく「自然に逆らってよいのか」「生命への冒涜ではないか」といった議論が出てくるでしょう。人工物に対する反発心を持つ方は、一定程度いらっしゃいます。
弊社は、衛星から「人工流れ星」を流す宇宙ベンチャーです。空を見上げるきっかけになって面白いね、前向きなプロジェクトだねと肯定的に見ていただいている方がほとんどですが、中には、流れ星というものに人が手を加えてよいのか、希少性があり、ロマンティックなものなのに、人工物にしてよいのかというご批判をいただくこともあります。
私は、「自然と人工物の違いは何なのか」ということを考えます。そもそも、人間も宇宙のなかの1つの生き物にすぎません。「人工物」を「自然のもの」と区別することそのものが、人類を特別視しているのではないかという違和感を覚えるのです。蜂や鳥が巣を作るように、人間は家やビルを作ります。私たちは、その延長で、流れ星を作っているにすぎません。
「神への冒涜だ」という言葉もありますが、私は、仮に宇宙を作り出した神というのが存在するとしたら、それはもっともっと大きくて広い視野で世界を見ているんじゃないかと思っています。ですから、生き物の1つにすぎない人間が、なにかを作り出す、そんなちっぽけなことは気にしていないと思うのです。
よく「人類は地球を破壊する」と言われます。けれど、いろいろな生き物が、増え続けては自滅するというパターンをくり返しているのですから、地球上で増え続けたことによって自滅するのは人類であって、それは、繁栄と自滅をくり返す、生き物の一部にすぎません。
このようにお話しすると、どうしても反発されてしまうかもしれないのですが、人類はあくまで生態系の中の一部にすぎない生き物として、他の生き物、自然を尊び共生を目指さなければいけないのではないかと思います。
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