徳川慶喜が「死を覚悟」孝明天皇と熾烈交渉の中身 両者の対応からにじみ出る絶妙な信頼関係

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慶応元年(1865年)、通商条約をすでに締結していたアメリカ、ロシア、イギリス、フランスの4カ国の公使が、連合艦隊8隻を率いて大阪湾に来航。幕府の老中格である小笠原長行が対応したところ、条約の勅許を迫られることとなった。

当然、孝明天皇が通商を認めるはずもない。どうするべきかと将軍の家茂も交えた大阪城での会議は紛糾。老中の罷免問題にも発展し、責任を感じた家茂は「将軍を辞任する」と、一度は朝廷に辞任を提出している。厄介なことに、外国の公使たちは、条約の勅許だけではなく横浜港の開港まで迫ってきた。20歳の家茂では、手に余ったとしても無理はない。

慶喜としては、この局面で将軍職を押し付けられることは避けたい。家茂をなだめて、朝廷の説得役を買って出ている。朝廷側に立つことの多い慶喜だったが、時に徳川家の人間としての顔を見せる。このときは、まさに慶喜のそんな一面が現れた瞬間だといえよう。

「責任を取って切腹する」勝負に出た慶喜

孝明天皇の攘夷への意志は固いものの、公卿たちの意見は割れていることを、朝廷に通じた慶喜は知っている。結論は出ないままに、朝議が解散しようとしたとき、慶喜は勝負に出る。

「これほど申し上げても朝廷が条約を許可しないならば、私は責任を取って切腹する」

そのうえで「その代わり、家来が暴れ出すぞ」と脅しかけてまで、強引に条約勅許を求めた。通商条約に反対することは、孝明天皇にとってアイデンティティーの1つでもあった。この国を守るために、自分が踏ん張って担い続ける役目だと信じて、その態度を貫いてきたのだろう。

しかし、自分が頼りにしている慶喜にここまで言われては、孝明天皇も折れざるをえなかった。ついに、孝明天皇は通商条約について認めて、こんな朝議を出している。

「条約の儀、御許容あらせらる。至当の処置致すべきこと」

「禁門の変」では、慶喜のほうが折れて、孝明天皇が願った長州征伐に全力を尽くした。またそれ以前には、開国思想を持ちながらも攘夷を掲げて、孝明天皇に味方したこともあった。だが、今度は孝明天皇のほうが、慶喜の熱意に折れたかたちとなった。

人にはそれぞれ守り通したい信条がある。だが、時に、その信条さえも譲ってもよいと思える人が現れることもある。幕末で交錯した孝明天皇と徳川慶喜は、そんな関係だったのかもしれない。

(第6回につづく)

【参考文献】
宮内省先帝御事蹟取調掛編『孝明天皇紀』(平安神宮)
日本史籍協会編『一条忠香日記抄』(東京大学出版会)
渋沢栄一『徳川慶喜公伝 全4巻』(東洋文庫)
福地重孝『孝明天皇』(秋田書店)
家近良樹『幕末・維新の新視点 孝明天皇と「一会桑」』 (文春新書)
藤田覚『幕末の天皇』 (講談社学術文庫)
家近良樹『幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白』 (中央公論新社)
家近良樹『幕末維新の個性①徳川慶喜』(吉川弘文館)
松浦玲『徳川慶喜 将軍家の明治維新 増補版』(中公新書)
野口武彦『慶喜のカリスマ』(講談社)

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