徳川慶喜が「死を覚悟」孝明天皇と熾烈交渉の中身 両者の対応からにじみ出る絶妙な信頼関係

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長州藩が京に出兵した「禁門の変」の引き金となったのが、6月5日に京で起きた池田屋事件である。会津藩配下の新選組が、池田屋に潜伏していた長州藩、土佐藩、肥後藩ら尊王攘夷の志士たちを襲撃した。

尊王攘夷の志士たちは、池田屋で何をたくらんでいたのか。新選組に捕縛された尊攘派志士、古高俊太郎の自白によって明らかになっている。それは次のようなものだった。

「御所に火を放って、八月十八日の政変を主導した中川宮を幽閉。一橋慶喜や松平容保らを暗殺して、孝明天皇を長州へ連れて行く」

大胆なクーデター計画である。京を守る慶喜もターゲットにされていたわけだが、慶喜からすれば、長州藩に敵対的な感情はなかった。

長州藩を追放した「八月十八日の政変」が起きたとき、慶喜は京から離れていて関与していない。それ以後も、長州藩主の毛利敬親と定広の親子とは、手紙のやりとりをする間柄であった。そもそも、慶喜は水戸藩から多くの兵士を借りており、その大半は尊王攘夷派である。慶喜自身も「尊王」を掲げながらもないがしろにされている長州藩に対しては、むしろ同情的だった。

一方、会津藩藩主で京都守護職に就いていた松平容保は、長州藩兵が京に近づけば、征伐しかないと考えていた。そのため、慶喜の「長州藩とできるだけ話し合おう」という態度には、不信感を拭えなかったようだ。容保と慶喜は「一会桑」のなかで、対立を深めていく。

孝明天皇と慶喜の隠れた攻防戦

だが、そうこうしているうちに、1500人を率いた長州藩の軍勢が京に近づいてくる。池田屋事件から約2週間後の6月20日には大阪に到着。その翌日から、続々と福原越後隊や来島又兵衛隊などの長州藩士が、伏見の長州藩邸へと入ってきた。

そして27日には、ついに嵐山の天竜寺にまで長州藩士が進出。その2日後、たまらず孝明天皇は慶喜に参内を命じて、こう念押ししている(『孝明天皇日記』)。

「長州人の入京は絶対にあってはならない」

これだけ厳命されても、慶喜は武力討伐ではなく、長州藩を説得することにあくまでもこだわった。長州藩の永代家老である福原元僴(福原越後)に対して、事を荒立てぬようにと、こう働きかけている。

「大坂に退去してひとまず朝命を待つように」

ただし、天皇の意向を無視したかたちにならないように配慮はしている。慶喜は、伏見、山崎、天竜寺と3方面に諸藩兵を配置して守りを固め、禁裏御守衛総督としての任を果たさんとした。バランス感覚を持って現実的な対応を行いながらも、自分の考えは諦めずに貫くという、慶喜らしい頑固さが垣間見られる。

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