徳川慶喜が「死を覚悟」孝明天皇と熾烈交渉の中身 両者の対応からにじみ出る絶妙な信頼関係

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だが、頑固さでは、孝明天皇も負けてはいない。7月3日夜には、長州征伐を命じる朝命を下す。さらに18日に「玉座の下」に慶喜を呼び、長州藩追討の勅命を直々に下している。

これで長州藩は「朝敵」となり、慶喜も討たないわけにはいかなくなった。このときには、まさか自分が将来的に朝敵とされ、薩摩と長州が官軍になるとは、先を見通す力に優れた慶喜でも、想像しなかっただろう。

「禁門の変」が起きるのは、孝明天皇が直命を下した翌日のことである。

長州藩に対する孝明天皇の好戦的な態度は、強い「不安」が原動力になっているだけあって、揺らぐことがない。また、慶喜は慶喜で、決定的な状況になるまでは腹が決まらぬところがあるが、土壇場になれば、大胆な行動で局面を打開する胆力があった。

薩摩藩が京に駆けつけたことで「禁門の変」は、戦闘そのものはわずか1日で終わり、長州藩を撃退することに成功。混乱に陥る京で、慶喜は禁裏御守衛総督らしく大奮闘を見せている。長州藩兵の残党が鷹司邸に突入して占拠すると、慶喜は鷹司邸を焼き払うという決断を戦場で下し、長州藩の最後の部隊を敗走させることに成功した。

孝明天皇からすれば、慶喜には直前までヤキモキさせられた分、その喜びもひとしおだったのだろう。御学問所で対面して、慶喜の軍功をねぎらっている。

「死ぬ覚悟を決めたことが3度」あった慶喜

この戦いで慶喜が得たのは、孝明天皇からの信頼だけではない。長州寄りだと不審を買っていた松平容保からも慶喜は信用を得た。両者が結びつきを強くしたため、「一会桑」は影響力を高めていく。

慶喜は晩年に「かつて死ぬ覚悟を決めたことが3度あった」と述懐したが、その1つが、この「禁門の変」での長州兵の討伐であった。慶喜にとっても、孝明天皇にとっても、人生の大きなターニングポイントであったことは間違いないだろう。

では、慶喜が「死ぬ覚悟を決めた」、あとの2回はいつだったのか。1回は、新政府軍が江戸に進軍してきたときである。大阪城から逃げ帰ってきた慶喜は、上野寛永寺大滋院で謹慎生活を送っていた。生きた心地がしなかったのは確かだろう。

残る1回は、この「禁門の変」と同様に、孝明天皇が関係している。孝明天皇が幕末のキーマンとなった原点であり、長きにわたる問題となった「条約勅許」の解決である。

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