サントリーが美術や音楽に「お金をかける」深い訳 二代目社長の佐治敬三が語った文化事業への思い

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寿屋が初めてビールに挑戦したのは戦前のことだった。創業者、鳥井信治郎は1929年に新カスケードビール、1930年にオラガビールを発売したが、業界大手にかなわず6年後に撤退。信治郎は歯噛みして悔しがった。撤退から二十数年を経て、二代目の佐治は自宅で静養していた父親、鳥井信治郎の枕元で、ある決意を打ち明ける。

「ビールに挑戦したい」

信治郎は「人生はとどのつまり賭けや」と言ってから、低い声で続けた。

「やってみなはれ」

サントリーがビールを発売したのはそれから3年後、信治郎はすでに鬼籍に入っていた。佐治がビジネスで最も大きな決断をしたのは、ビールへの再進出である。

サントリーがビールに進出した理由

進出する理由はふたつあった。ひとつはウイスキーは売れて売れて繁盛していたけれど、経営の柱が一本だけでは心もとないと思ったこと。大きく成長する新事業が欲しかったのだ。

ふたつめはウイスキーとビールは隣接しているから製造については自信があった。ともに原料は麦芽と水である。加えて、当時はすでに家庭に冷蔵庫が普及していた。製氷機の氷でサントリーウイスキーを飲む消費者が大勢いた。佐治がやろうとしたのは冷蔵庫のなかにサントリービールを1本でも2本でも入れてもらうことだったのである。

サントリーにとっても「いまが千載一遇のチャンス」だったのである。だが、当初は大苦戦し、佐治は自らセールスマンとなってビールを売り歩く。

「始めたころはサントリーのラベルが付いとるだけで『ウイスキーくさい』と言われてちっとも売れん。バーや酒屋さんへ行ってもセールスは言うに及ばず、配達を手伝ったり、子守をやったり、料亭では下足番をやったり、まあ、たいていのことはやりましたな。そのうちに、うちのビールを扱ってくれる酒屋さんが増えてきて、若獅子会という親睦会をつくったんですわ。ヤングライオンの会。なんでやと言ったら、強いライオンになって、キリンの足を食いたい、と。はい、ネーミングは僕です」

私がそんな話を聞いたのは1995年のことだった。

同社ビールのシェアは6.7%。首位のキリンビールは47.5%もあった。ところが2016年にはサントリーのシェアは15.7%になっている。一方、首位だったキリンビールは業界2位に落ち、シェアは32.4%だ。20年間で、ライオンはキリンの足を食べてしまったのだ。

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