サントリーが美術や音楽に「お金をかける」深い訳 二代目社長の佐治敬三が語った文化事業への思い

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そこで宣伝に力を入れた。当時はまだ新興メディアだったラジオ、テレビを活用し、最高で24万部という大部数のPR誌『洋酒天国』を制作し、全国で配った。

つまり、最初の大きな決断とは、宣伝に力を入れること、優秀なクリエーターを集め、敬意をもって接することだった。そして、佐治が出会った最高のクリエーターは作家の開高健だった。

「最高のツレやった」作家・開高健の才気煥発

「僕は小学校の時分から早熟で宣伝文句を考えたり、絵を描いたりするのが好きだった。自分でもコピーを書いたりしたけれど、でも、もっとええ人間がおったら採用しようと虎視眈々としておった。開高はうちで働いていた牧羊子(詩人)の旦那だ。僕は開高が『えんぴつ』という同人誌に書いた編集後記が心に残っていたから、一度は会いたいと思っていた。あるとき、彼女が『子どもができたんやけどダンナ失業しましてん。寿屋でやとてちょうだい』と言ってきた。

『よっしゃ、それならあんたとトレードしよやないか』

それで入社してきたんだよ。入ったばかりのころ、開高は『発展』という酒屋さん向けのPR誌の仕事をしていた。地方を回って酒屋のご主人に話をうかがい、店頭の写真も撮る。写真を撮るとなると棚の酒もきれいに並べるし、当社のウイスキーを前に出してくれる。それがこっちのメリットになるわけやな」

佐治は開高の人間と才能と文学のすべてが好きだった。開高が社員として働いたのは5年ほどで、後に関連会社の嘱託になる。佐治はビールを発売する前も、開高に相談し、一緒に欧州まで出掛けていった。

佐治は「開高は最高のツレやった」と言っていた。

「あいつはまだ痩せていたな。才気煥発で非常に真面目な男なんだ。何をやらせても仕事の手は早いし、そもそも人間の出来が違う。僕は宣伝のコピーにはうるさいほうで、よく筆を入れたりしたが、開高のコピーだけはとてもそんなことのできる余地はなかった。うちにいた時間は短かったが、その後も深く関わって従業員以上に働いてくれた。

『人間らしくやりたいナ』というトリスのコピーもあれは退職後の仕事です。『ナ』というカタカナにしたところが味噌なんでしょうな、きっと。あいつは経営者としても立派になる素質を持ってましたから、あのまま辞めずにいたら取締役どころかサントリーの社長になってました。

ほんまに、あの時代は誰もかれもみんな気が違うくらい仕事してた。朝から晩まで働いて後は酒を飲むだけや。みんなが『狂』の時代で、何かに取り憑かれるように仕事をしていた。誰かに怒られるから仕事をしようというのでなく、さりとてやらねばならないと目を吊り上げたわけでもない。周りの『狂』に同化してしまって、いつの間にか働いていたんだな」

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