直木賞作家「サイボーグが書いた純愛物語に快哉」 相手に「忘れる」幸福を許さぬ「傲慢な愛」の本質
『ブルース』という1冊で「俺を生んだのは、俺じゃないかという気がする」という1行を書いたことがあります。自分が自分を生んだというのは、非常に孤独な状況ですよね。
でも、ピーターさんとフランシスさんは、自分が最も欲する相手を、お互いに生み合っているから、孤独ではないのです。そこに2人でいるかぎりは、安全です。
それを、ひとことで「愛情」と言ってよいのかどうか、私にはわかりません。彼らのなかには複雑な思いもあるでしょう。
ともすれば刺し違えるぐらいの、相反する感情も愛となればあるはずですし、恋愛関係ともなれば、そこには恐怖感もあるでしょう。傍から見た形は純愛物語ですが、ご本人たちはどう思っているんでしょうね。
最後には、お互いに相手を「許し合う」ことが大事
そして、恋人たちが最後にしなければならないことは、お互いに相手を許し合うことです。それができないと、恋愛は大変なことになっていきます。
だから、この物語の最後には、ピーターさんが「ダーリンお願いだ。僕を置いていかないでくれ!」と呼びかけ、フランシスさんからの「そんな言葉、一生聞けないと思ってた……」というセリフがあるのでしょうね。
実は、このラストのセリフは、小説を書き慣れていない人が、読み手を根こそぎ持っていってしまうラッキーパンチのようなものでもあります。
私は、見えないものの答えが欲しくて書いています。その本当に言いたいことを、最後の5~6行に込めるということはありがちです。小説家としては、そこに落としてはいけないと思うので工夫するわけですが、『ネオ・ヒューマン』のラストは、ひたむきさに、してやられたという感じですね。本人が書いた実録の余裕というか。
エゴイスティックだなとは感じたけれども、非常に繊細なことを表現するのに、乱暴な道具を使っている。そうまでしてでも伝えたいことが、ピーターさんにはあったということでしょう。慰め不要、問答無用のラブストーリーです。
(構成:泉美木蘭)
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