直木賞作家「サイボーグが書いた純愛物語に快哉」 相手に「忘れる」幸福を許さぬ「傲慢な愛」の本質
私たちは、恋愛においては大抵、好きな相手のことを「いまどう思っているのだろう?」と想像して足踏みします。お互いの意思疎通がうまくできなくて、余計なことをしたり、悩んだり考えたりすることの連続によって、関係性が深まっていく。しかし、ピーターさんは、フランシスさんからの愛をまったく疑っていないのです。前しか向いていない。ここは驚くべきところでした。
一方で、とてもエゴイスティックにも感じます。ピーターさんは、好きになったフランシスさんに対して、AIやVRなどの技術を駆使することによって、死ぬまでの間、自分のことを「忘れる」という幸福を許していないわけです。
自分の残された命が、予定していたよりも短いということになれば、「好きになったからこそ、自分のことは忘れてください」という考え方もあると思うんです。
自分がいなくなったあと、遺された者にあるのは、思い出だけ。そして、それも徐々に薄れてゆく。これは、人間に与えられた「忘れるという幸福」だと私は考えています。ですから、それを許さないというのは、傲慢に見えるのです。
しかし、考えてみれば、愛情から「情」を抜き取れば、エゴイスティックなものなのかもしれません。みんな「情」で足踏みするのだろうから。「愛」しかないというのは、つまりは、エゴなのでしょう。
私はフランシスさんのほうにとても興味がありますね。もしも会うことができたら「ねえ、重くない? あなた、ピーターさんを忘れることを許されてないんだよ、どうする?」と聞いてみたいです。
壮大なラブレター
自分たちの愛情の堅さを、書くことで証明したいという、壮大なラブレターのようにも感じました。「こんなになっても僕たちは大丈夫なんだ」と。
世界各地あらゆるところで、「死んでも君のそばにいるよ」ということが描かれてきました。日本では『千の風になって』という歌が流行しましたよね。
でも、ピーターさんは、「千の風」という抽象的なものではなく、「僕はテクノロジーを使って、もっと具体的にこんなことができるんだよ」と明るく未来を語りかけているのです。
まず、自身が見てきた同性愛者や難病患者を取り巻く厳しい世界を報告していきます。また、自身の生い立ちと並行させることによって、自分はどういう人間であったのか、どういうことがあってこうなったのかを新聞記事のように整然と並べてもいます。
しかし、ラストでは、完全なフィクションの未来を描き、それまでの世界を打ち破ってしまう。それが明るいのです。
自分の知識に裏打ちされた、死を前向きに捉えていくという死生観がそこにはあります。
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