直木賞作家「サイボーグが書いた純愛物語に快哉」 相手に「忘れる」幸福を許さぬ「傲慢な愛」の本質
ラブレター的な作品として、「余命モノ」「難病モノ」と呼べるような作品が時々、ヒットします。多くは実話をもとに、涙を誘うことを狙いとしたもので、読んだ人は必ず泣く、あるいは泣かなかった場合はどこかで自分を責めるという作風です。
私自身は、涙は流すものではなく、こらえるものだというところを描いてきたつもりなので、最初から泣くことがわかっている作品は書きたくありません。しかし、ピーターさんの明るいラブレターには、頭を叩かれたというのが正直なところです。
科学者が、知識のすべてを使って書いた回顧録。そこに、カットインして過去から成長していく部分と、未来に向かう部分とをクロスさせ、ラストに持っていく。小説と似た手法ですし、本人ですから、いかようにも書くことができる。
こういう1冊には、本業のフィクション作家は敵わないなあと思いました。彼は、お話を書く人になれたのではないでしょうか。むしろ、この本こそが、彼のやりたかったことなのかもしれません。
そしてラストの物語は彼の想像のなかにあるわけですが、彼には「僕はこれを現実にしていくよ」という意志もあります。ここから読者になにかが伝わるでしょう。
自分への怒りで前進する
彼の明るさのなかには、怒りもあります。
それは、小さい頃からずっと手放さずに抱えてきたもので、同性愛者として受けてきた偏見や誤解などによるものだったりする。一般的な「怒っている」という感情ではなく、こだわり、執念、もどかしさ、ふがいなさというような、自分に対する怒りかもしれません。
私自身も、最初から小説を書けていたわけではなく、自分の伝えたいことをきちんと掴んで、表現できるようになるまでは10年以上かかっています。
小説の腕が上がらない自分に対する怒り。表現する場所のない怒り。今日明日にできることではないものの、なかなか芽が出ないという悔しさ。今でもありますね。
でも、それがなければ変えられませんし、前に進めません。怒りは、進む力の1つです。
ピーターさんも、そういったものがバネになっていることは確かでしょう。大抵のいい仕事には、その内側に、他人にはわからない怒りが潜んでいる。この本の隠し味には、そうした「怒り」があると思います。
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