日本の対外情報発信の不足と経済論議の混迷 グローバルな視点と言語で発信することの意義

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ユーロ参加国の中で英語が母国語なのはアイルランドだけであるが、ECB(欧州中央銀行)は作業言語を英語としているため、域外諸国の人はECBの情報に容易にアクセスできる。中央銀行総裁の記者会見は金融政策に関する情報発信の主要なツールであるが、主要国で会見を英語で行っていないのは日本と中国だけである。

日本でも英語による記者会見をすべきだと主張しているわけではない。だが、海外のエコノミストやマスコミにとっては、日本に関する情報アクセスに、我々が意識しないようなさまざまな困難があるだろうことは認識しておく必要がある。

グローバル・スタンダードの真の意味

誤解のないようにここで強調したいのは、私は「日本特殊論」を主張しているのではないし、グローバル・スタンダードを軽視しているわけでもないということである。

さまざまな分野でグローバル・スタンダードが重要になっているのが現実だ。金融規制の分野では、自己資本比率規制として知られるバーゼル合意はその典型例である。金融政策運営では、インフレーション・ターゲティングが相当する。問題は、グローバル・スタンダードの捉え方である。

「2%の物価目標はグローバル・スタンダードである」という言い方がよくなされるが、日本の経済政策論議において「〇○はグローバル・スタンダードである」とは、それ以上の突っ込んだ議論を封じる場合に用いられる傾向があるというと、言い過ぎだろうか。

グローバル・スタンダードをこのように使う議論に私は不信感を持っている。その理由は、グローバル・スタンダードと言っても実態としては「米国スタンダード」に近いケースが多いからである。

さきほどの2%の物価目標を例にとっても、ゼロ金利制約に直面しない金利引き下げの「糊代」確保を論拠にプラスの物価目標を設定する場合、その水準は当該国の自然利子率の水準や財政政策の発動の余地に依存し、各国で異なる。

これは、2020年の米国経済学会会長講演でバーナンキが強調した点である。そもそも、各国のマクロ経済運営に違いが存在することを認めるからこそ、先進国は変動相場制を採用している。これがグローバル・スタンダードである。

さらに、グローバル・スタンダードと言っても、それほど昔から存在するものではない。スタンダードは常に変化していく。グローバル・スタンダードを強調する論者は、これを固定的なものとして捉える傾向が強い。日本経済をめぐる議論の第2の局面で主張された「日本の経験の教訓」に基づく政策処方箋は、当時のグローバル・スタンダードとも言える考え方であったが、そうした見方自体が変化してきているのが現在である。

グローバル・スタンダードが都合よく使われているように思えてならない。

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