日本の対外情報発信の不足と経済論議の混迷 グローバルな視点と言語で発信することの意義

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既存のマクロ経済理論や政策論は欧米の経済や社会、端的に言えば米国の経済や社会を前提に組み立てられているにもかかわらず、そのことへの理解が乏しい。

典型が労働市場である。速やかなレイオフ(一時帰休)が一般的な米国、手厚い失業保険制を有する欧州、雇用安定を重視する日本、というようにショックに対する雇用や賃金・物価の反応の仕方は違っている。

急速な高齢化や人口減少などの国内情勢、失敗に対する社会の寛容さの違いも、中長期的に見た各国の経済のパフォーマンスに大きな差を生み出す。にもかかわらず、主流派マクロ経済学は米国という特定の国の「構造」に立脚していることへの認識が十分ではない。

米国は世界で最も経済規模が大きく、研究・教育の面で世界の中心に位置している。情報も国際的な公用語である英語で発信される。おのずと研究は理論、実証の両面で米国中心モデルとなりやすい。

こうなると大御所の学者は別にして、既存の理論に対し正面からチャレンジすることは難しい。ノーベル経済学賞受賞者のアンガス・ディートンが言うように、米国は分析に必要なデータも「世界全体を見渡そうとしたら、こんな贅沢は望むべくもない」ほど、整備されている。

もちろん、日本経済が研究の対象にならなかったわけではない。むしろ、バブル崩壊後の日本の低成長は、デフレやゼロ金利制約の恐怖を示す事例として好んで取り上げられた。ただし、取り上げられ方は便宜的(opportunistic)であり、日本特有の雇用慣行や人口動態の変化といった要因は無視された。

こうした現象は日本についてのみ生じているわけではない。日本では「欧米モデル」という言葉がよく使われるが、欧州諸国の政策当局者と話をすると、欧州的な要素が取り込まれていない米国式の議論であるとの苛立ちを聞くことが少なくなかった。彼らの不満は「米国モデル」に向けられていた。

新興国、途上国の政策当事者の不満はさらに大きかった。彼らは自分たちの置かれた状況についての理解不足や、深い疎外感を訴えていた。つまり、各国の経済はグローバルに共通な要素と各国に固有の要素が絡み合う形で変動しており、その両方をバランスよく理解する必要がある。

日本は英語での対外情報発信が圧倒的に少ない

日本の経験が海外で十分に理解されていないのには、英語で日本経済や日本の金融政策についてリサーチや情報を海外へ発信することが質・量とも圧倒的に少ないことが大きく関係している。これは知の世界における英語の圧倒的優位性を示しており、作家の水口美苗氏が『日本語が亡びるとき』で描いた知の世界の未来像に対応する状況である。

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