銀座が「西洋風の街並み実践の地」に選ばれたワケ 渋沢栄一も関わった明治時代の街づくりの謎

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歴史の教科書には、多くの絵や写真が掲載されています。今回は、一枚の写真に隠された秘話をご紹介します(写真:momo/PIXTA)
歴史の教科書には、多くの絵や写真が掲載されています。みなさんも学生時代、時には面白いぞと思って目をとめたことがあるかもしれません。でも、ほとんどは、そのままスルーしてしまったことでしょう。ただ、そんな一枚一枚を丁寧に紐解いていくと、大人の皆さんが習った時代とは別の説明がされていたり、はたまた驚くようなストーリーが詰まっていたりするものです。
今回は、そんなメジャーな絵画の裏にある意外な歴史や、マイナーな写真に隠された秘話を掘り起こした書籍『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』より、一部を抜粋してお届けします。

今回の一枚は…

「東京名所之内銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」
©東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

今回の一枚は、明治15年(1882)の銀座中央通りの京橋付近の様子を三代目歌川広重が描いたもの。通りの両側には、煉瓦づくりの洋館が並び、鉄道馬車や人力車が走り、道行く人々の中には洋服を着てこうもり傘をさす姿も見える。

石橋の欄干にはガス灯が設置され、色濃く文明開化の雰囲気がただよっている。

まさに、江戸時代から明治時代への大転換を象徴する景観なので、ほぼすべての日本史の教科書で文明開化の象徴として銀座煉瓦街の錦絵が掲載されている。

でも、なぜ明治初期に銀座の地に日本初の煉瓦街が生まれたのだろうか。

その最大の理由は、明治5年(1872)2月の大火でこのあたり一帯が焼失してしまったからである。火事では5000戸近い家屋が燃え、2万人近い人々が焼け出された。

日本の家屋は木と紙でできているうえに建物が密集し、冬は乾燥して風も強い。このため江戸時代、市中ではたびたび大火が発生していた。なんと、銀座界隈も明治5年以前のわずか10年間に6度も大火に見舞われているのだ。

だから江戸を首都に選んだ明治政府にとって、都市の防火対策の整備は緊急の課題だった。そこで銀座が焼け野原になったのを機に、時の東京府知事の由利公正が銀座の不燃化を構想し、火事の翌日にはそれに基づいた再建計画を太政官(政府の最高機関)に申請したのである。

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