銀座が「西洋風の街並み実践の地」に選ばれたワケ 渋沢栄一も関わった明治時代の街づくりの謎
今回の一枚は…
今回の一枚は、明治15年(1882)の銀座中央通りの京橋付近の様子を三代目歌川広重が描いたもの。通りの両側には、煉瓦づくりの洋館が並び、鉄道馬車や人力車が走り、道行く人々の中には洋服を着てこうもり傘をさす姿も見える。
石橋の欄干にはガス灯が設置され、色濃く文明開化の雰囲気がただよっている。
まさに、江戸時代から明治時代への大転換を象徴する景観なので、ほぼすべての日本史の教科書で文明開化の象徴として銀座煉瓦街の錦絵が掲載されている。
でも、なぜ明治初期に銀座の地に日本初の煉瓦街が生まれたのだろうか。
その最大の理由は、明治5年(1872)2月の大火でこのあたり一帯が焼失してしまったからである。火事では5000戸近い家屋が燃え、2万人近い人々が焼け出された。
日本の家屋は木と紙でできているうえに建物が密集し、冬は乾燥して風も強い。このため江戸時代、市中ではたびたび大火が発生していた。なんと、銀座界隈も明治5年以前のわずか10年間に6度も大火に見舞われているのだ。
だから江戸を首都に選んだ明治政府にとって、都市の防火対策の整備は緊急の課題だった。そこで銀座が焼け野原になったのを機に、時の東京府知事の由利公正が銀座の不燃化を構想し、火事の翌日にはそれに基づいた再建計画を太政官(政府の最高機関)に申請したのである。
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