銀座が「西洋風の街並み実践の地」に選ばれたワケ 渋沢栄一も関わった明治時代の街づくりの謎
そんなこともあり、列強諸国に日本の近代化を誇示しようとしたのではないだろうか。
「銀座街づくり」後半戦の担い手は、お雇い外国人
だが、翌明治6年(1873)には井上と渋沢は政府を下野してしまう。以後は、井上が責任者にすえたアイルランド出身の建築家トーマス・ウォートルスが銀座再建の中心になった。
元治元年(1864)頃に来日したウォートルスは、長崎の武器商人のグラバー商会で働き、薩摩藩の白糖工場や紡績所の設計・建設を担っていた経験があり、維新後には明治政府の大蔵省造幣寮に雇われ、大阪造幣寮などの建設にあたった。
ウォートルスは、銀座を直線道路で碁盤目状に区画し、中央通りはパリのシャンゼリゼ通りをイメージして25間道路を構想した。計画は最終的に15間(約27メートル)に縮小されたものの、それでも当時としては広大だった。
また、錦絵にあるように、大通りは石畳によって舗装されて、京橋も木製から石橋に架け替えられ、京橋から芝までの通り沿いにはフランス人のアンリ・プレグランによって85柱のガス灯が設置された。
加えて、この頃には中央通りの両側にも煉瓦造2階建ての洋館が建ち並び始めている。
洋館は独立した建物ではなくアーケード形式が採用されており、街並みの景観はロンドンのリージェント街をお手本にしたといわれる。
こうして洋館建設が進むと、今度は大量の煉瓦が必要になった。そこでウォートルスは、急ぎ小菅(現在の東京都葛飾区)にホフマン窯(ドイツ人ホフマン考案)3基を設置し、煉瓦を製造させた。
先の「煉瓦銀座之碑」には、当時の煉瓦そのものがはめ込まれている。
なお、景観の面でいうと、みずほ銀行の銀座中央支店脇にある「銀座の柳由来」の碑も見逃せない。かつて銀座中央通りの街路樹は柳で、柳の木が銀座を象徴していた時期があったので、それを記念してこの碑を設置したのだ。
けれど、冒頭の錦絵をよく見てほしい。意外なことに当時の中央通りに柳はなく、桜や松が植えられていることがわかる。
街路樹が柳に替わったのは明治20年(1887)になってからのことなのである。
土地の水気が多く、桜や松は根腐れしてしまうので、湿地に適した柳にしたのだ。
だが、やがて銀杏に替わったり、歩道改修で撤去されたり、と変転を繰り返し、昭和43年(1968)、交通混雑を理由に柳はすべて撤去された。
その後、中央通りには低木のイチイが植えられ、いまはカツラになっている。
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