銀座が「西洋風の街並み実践の地」に選ばれたワケ 渋沢栄一も関わった明治時代の街づくりの謎

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この火事で由利の屋敷が類焼したことも、スピーディーな行動と関係があるかもしれない。

明治政府もこの提案をすぐに了承。すると火事の5日後(3月2日)に由利は、「府内の家屋は、火災を防ぐため煉瓦で建てることにする。せっかくの財産を火事のために灰燼にしてしまうのは、莫大な損失である。そこで今後、類焼の町々は道路を広げ、すぐに煉瓦の家屋をつくるので、勝手に家を新築しないように」という通達を東京府民に発した。

ずいぶんと性急な命令だが、そうしないと火事に慣れた庶民がすぐに家屋の再建にかかってしまうからだろう。

序盤戦を担ったのは、井上馨と渋沢栄一

こうして、京橋から新橋を貫く中央通りの両側に煉瓦街がつくられていった。京橋は、日本橋を出発して東海道を京都へ向かう際に最初に渡る橋なので、そう呼ばれるようになったらしい。

戦後、京橋川は埋め立てられ、橋自体も消滅したが、その跡地には明治8年(1875)の京橋親柱(京橋記念碑)が保存され、近くには煉瓦銀座之碑が立っている。

碑には「経綸」(国を治める施策の意)の二文字が刻まれているが、これは例の由利公正の揮毫である。

(写真:左から順に、煉瓦銀座之碑 ©祥伝社編集部撮影/京橋親柱 ©写真AC/渋沢栄一 ©国立国会図書館所蔵)

なお、この碑文を読むと、由利が主導して煉瓦街を完成させたように記されているが、本人は明治5年(1872)5月に岩倉使節団の一員として渡欧しており、街づくりは大蔵大輔の井上馨とその部下で大蔵少輔事務取扱の渋沢栄一が主導して完成させた。

銀座は、鉄道の起点である新橋駅に近く、開港場の横浜からやって来た外国人は、新橋停車場で降り、中央通りから外国人居留地のある築地明石町に向かう。

この際、嫌でも煉瓦街が目に入る。幕末にイギリス留学経験のある井上は、鹿鳴館外交にもみられるように欧化主義者であった。

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