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銀座が「西洋風の街並み実践の地」に選ばれたワケ 渋沢栄一も関わった明治時代の街づくりの謎

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ただ、柳の復活を願う人々の努力によって、昭和50年(1975)に銀座一丁目と二丁目間の道路に柳並木が復活した。現在の柳通りである。さらに西銀座通り、松屋通り、御門通りなども街路樹が柳になりつつある。

文明開化の街「銀座」の教科書には載らない裏側

さて、煉瓦街に話を戻そう。

当時の新聞は、銀座煉瓦街について「始めてこの市街に入る者はまさに異域の思いを生ぜん」(「郵便報知新聞」明治7年2月13日)と述べている。では、煉瓦でつくられた洋館は銀座一帯にどの程度あったのだろうか。

当時、確かに中央通りの両側は洋館が軒を連ね、外国のようであった。

ところが、棟数では街全体の3割強しかつくられず、中央通りから一歩裏手へ入ると、伝統的な土蔵家屋が多かったという。

というのも、予算が大幅に超過してしまったため、希望者による自費建築も容認したからであった。

銀座三丁目の松澤八右衛門の屋敷などは、純和風土蔵づくりの立派な屋敷だったという。

また、冒頭の明治5年(1872)2月の銀座大火のあと、焼け跡に完成した煉瓦屋敷には、焼け出された住民が優先的に入居できるよう配慮がなされた。

しかし、彼らのほとんどが入居することはなかった。

なぜなら、払い下げ価格が高かったことに加え、急ごしらえの洋館なので湿気や雨漏りがひどかったからだ。たとえば、入居した海苔屋などは商品が湿気ってしまい、商売にならなかったという。

さらには、「煉瓦屋敷に住むと病にかかる」という風評も広まり、それが元の住人たちからますます敬遠される要因になった。結果として、丸の内の官庁街に近い立地だったこともあり、新進気鋭の中堅官僚や軍人が新しい住人となっていった。

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加えて、銀座が新橋停車場に近くて輸送に便利なうえ、洋館は印刷機など重い機械を設置できる頑丈さを備えていたこともあり、新聞社・雑誌社や印刷業者が入居するようになった。

しかし、それでも裏通りには空き家が多く、仕方なく紙細工や猿芝居など見世物商売などの用途での使用も許した。

「銀座街辺は毎夜淫売の淵藪(寄り集まるところ)なりしが、一昨夜、第一方面三分署より御手が這入り、都合淫売女が十六名、外に手引き宿主とも以上十八人、数珠繋ぎにて拘引されたり」

これは明治13年(1880)11月19日の朝野新聞の記事である。煉瓦街が生まれてからわずか6年後、銀座は「淫売女」が寄り集まる街となり、十数名も摘発されるような事態になってしまっている。

悲しいかな、それが文明開化の街「銀座」の現実だったのである。

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