日本の「経済成長一辺倒」に致命的に欠けた視点 「SDGs」を声高に叫ぶ日本に欧州で覚える違和感
広井:ドイツと日本を見たとき、都市の歴史的発展の経緯が随分違いますが、ほかに大きく違うところはありますか?
高松:例えば、個人のメンタリティーがそうとう違うと理解しています。「自己決定する私」という考え方が強いのがドイツ。スポーツの話でいえば、「試合に出るのは自己決定」ということになる。これが基本にあるため、日本の「勝利至上主義」にのまれたような集団になりにくいかと。
広井:ほかにはありますか。
高松:休暇などもそうだと思います。ドイツの長期休暇は有名ですが、制度面もさることながら、「この日から2週間休む」と自分が決める。強い自己決定メンタリティーとよく合います。ところで、休暇に関していえば、ご著書で豊かな社会の実現を想定して、「日本は祝日を2倍つくるべきだ」と提唱されていますよね。
広井:はい。
高松:皮肉な言い方になるのですが、「自己決定する私」が弱い日本にはちょうどよいのかなとも思えてくるんですよ。一方、このメンタリティーは19世紀に確立。これが「赤の他人の集団」が前提になったドイツの都市ともよく合うように思います。
広井:そうですね。個人としてつながる、交流する、ということですね。私は「都市型コミュニティー」「農村型コミュニティー」という分け方をしていますが、前者がそうです。
高松:はい。スポーツクラブもそういう都市の人間関係がベースになったコミュニティーの1つです。
今も経済成長にとらわれている日本
高松:「農村型コミュニティー」のまま日本は近代化を果たしたわけですが、戦後最も大きくなった「ムラ」が「カイシャ」だと思います。
広井:それは重要な点です。言い換えるならば、昭和的な姿というか、集団で経済成長という1本の坂道を上るというのがとにかく染み付いているということです。
高松:そうですね。
広井:あの安倍政権のときもGDPを600兆円にするのが目標とした。ノルマ主義とでもいうものに振り回されている。そして、残念ながらいまだに過労死というようなことが起こる。今もなお経済成長にとらわれている日本のほうが、失われた20年とか30年とか言われるように、逆に経済のパフォーマンスもよくない。
高松:皮肉な結果としかいいようがないですね。
広井: 1980年代ごろジャパン・アズ・ナンバーワンなどと、日本は経済成長の申し子のように言われた。とにかく昭和のやり方、つまり「カイシャ」人間的なやり方を続ければうまくいくと思っている人が結構います。そこをいかに変えていくかというのが大きな課題です。
高松:「経済成長一辺倒になりがちな日本」に対比させたとき、ドイツの都市の発展のしかたに着目すべきだと思うんです。
広井:中世の市壁に囲まれた都市から発展したという話がありますね。
高松:はい。その古典的イメージからいえば、経済・教育・福祉・文化などすべてが壁の中にそろっていなければならない。ものすごく乱暴にまとめると、「市民のためのセット」のように、一種のモジュールとして都市は発達してきたと思えるんです。だから、バランスよく、これらがそろうように全体最適を目指すようなところがある。言い換えれば、「経済一辺倒」では「全体最適」とはいえません。
広井:確かに。日本は概して部分最適的な発想に流れがちです。
高松:結果的に全体最適化された小さなモジュールのような都市が分散しているのがドイツだと思うんです。とりわけ「持続可能性」は現代における全体最適の軸になる考え方ですね。
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