信長はなぜ造った?意外と知らない「天守閣」の謎 安土桃山時代以前の城には存在していなかった

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しかしなぜ、織豊期の城・近世の城には天主・天守があるのだろうか。天主・天守を築くことにどういう意味があったのだろうか。

江戸時代の軍学者は、次の十項目を「天守十徳」とよび、これらが天主・天守の役割だとしている。

①城内をみる
②城外をみる
③遠方をみる
④城内武者配り自由
⑤城内の気をみる
⑥守備下知自由
⑦寄手の左右をみる
⑧飛物掛り自由
⑨非常時変化
⑩城の飾り

①~③、⑤⑦は、天守が展望台のような機能を持っていたことをあらわしている。戦国の城でいえば、井楼(せいろう)櫓などの物見櫓と同じ役割である。また、④⑥からは、天守の司令塔的な機能がわかる。

⑩以外はすべて戦時を想定した役割ということになるが、ご存じのとおり大坂冬の陣・夏の陣を最後に国内で戦いは起こらなくなった。戦いがなければ、天守は飾りとしての役割しか持たないことになる。「築城名人」といわれる伊達政宗や藤堂高虎らが仙台城・津城に天守を築かなかったのは、こういった理由もあるのである。

なお、⑩城の飾りとも関係するが、信長の安土城、秀吉の大坂城などには金箔瓦が葺かれていた。戦う城から見せる城へと変化していったことを物語っている。

秀吉の「一夜城」が実際にあったかどうかは疑問視

信長のあとを受けて天下人となった豊臣秀吉は一生の間にいくつもの城を築いている。その秀吉の築城歴を追いながら、織豊期の城の変遷を追ってみたい。

秀吉と城とのかかわりというと、多くの人は墨俣(すのまた)一夜城の話を連想するのではないだろうか。秀吉出世物語の重要なファクターとなっていることは周知のとおりである。

永禄9(1566)年9月、美濃を攻めあぐねた織田信長が、美濃攻めのための橋頭堡(きょうとうほ)を必要とし、はじめ佐久間信盛に墨俣での築城を命じたが失敗し、そのあと柴田勝家も失敗し、3人目に挑戦した秀吉が、木曾川べりの蜂須賀小六ら「川並衆」の協力を得て、短期間に城を築くことに成功したというものである。

短期間でできたことから一夜城の話となったわけであるが、このエピソード、『信長公記』などの信憑性の高い史料ではふれられておらず、伝えられるとおりのことが実際にあったかどうかは疑問視されている。

ただ、『信長公記』には「洲俣御要害」があったことはみえるので、秀吉が美濃の斎藤方部将の内応工作をはじめたとき、そこを拠点にしたことは考えられる。

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