信長はなぜ造った?意外と知らない「天守閣」の謎 安土桃山時代以前の城には存在していなかった

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秀吉が次に城とかかわるのは近江横山城(滋賀県長浜市)である。元亀元(1570)年6月28日の姉川の戦い後、秀吉は小谷(おだに)城に逃げもどった浅井(あざい)長政を監視するため、信長から横山城の城番を命ぜられている。ただ、城を改築したなどの記録はない。初期の段階で特筆されるのは、そのあとの長浜城築城であろう。

天正元(1573)年9月1日、小谷城主浅井長政が自刃し、小谷城攻めの功労者だった秀吉が浅井長政の遺領北近江三郡(伊香・浅井・坂田)を与えられ、小谷城主となった。いわゆる「一国一城の主」で、これは、明智光秀についで2人目である。そして、秀吉はすぐ、山城の小谷城をやめ、琵琶湖畔に長浜城を築いている。これは新規築城で、城下町づくりにも力を入れたことが知られている。

姫路城を造り変えさせたワケ

そのあと、秀吉は天正5(1577)年から「中国方面軍司令官」を命ぜられ、播磨の黒田官兵衛の居城だった姫路城を譲られ、対毛利輝元との戦いの前線基地としている。長浜城の城主でありながら姫路城の城主ともなり、注目されるのは、姫路城を石垣の城に造り変え、天守まで築かせたという点である。

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これは、秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛の子竹中重門が著した『豊鑑』に、「石をたゝみて山をつゝみ、地をうがちて水をたゝへ、やぐらどもをあまた造りつゞけ……」とあるのに続けて、「天守とかやとて、家を組あげて高くそびやかし、門々のかまへきびしく、かはらのいらか軒をならべり」と記されている。秀吉時代の姫路城にも瓦葺きの天守があったことがわかっている。

その後の研究で、近世の天守とは向きはちがうが、ほぼ同じ場所に、東西十間(約18メートル)、南北八間(約14.5メートル)の天守台の上に、三重四階の初期望楼型天守が載っていたと考えられている。

なお、秀吉は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変のあと、山崎の戦いで明智光秀を討ち、清洲会議を経て、山城・丹波両国を手に入れると、山崎の天王山に新しく山崎城を築いている。

この山崎城に天守が建てられていたことは吉田兼見の『兼見卿記』にも記されているが、どのような天守だったかは明らかでない。ただ、「天守台」といわれる北側あたりから瓦がみつかっているので、瓦葺きの天守だったことがわかる程度である。

(第2回に続く)

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