信長はなぜ造った?意外と知らない「天守閣」の謎 安土桃山時代以前の城には存在していなかった

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また『兼見卿記』には、明智光秀の居城であった坂本城に元亀3(1572)年、天主があげられたことがわかる。年代ははっきりしないものの、ほかにも信長の安土城築城以前だということが確実な細川藤孝の勝龍寺城にも「殿守」があがっていたとされている。

織田信長は天正3(1575)年11月28日、それまでの居城だった岐阜城を長男信忠に譲り、ひとまず城外の佐久間信盛の屋敷に入った。そして翌年正月中旬より、佐和山城主丹羽長秀を普請奉行に命じ、安土城の築城に着手している。天主の内装まで含めた全工事は、天正9(1581)年9月までかかったと考えられており、実に5年余におよぶ大工事であった。

安土城天主は外観5層、内部7重の高層建築

その安土城天主については、太田牛一の著した『信長公記』の「安土山御天主の次第」と『安土日記』の記述からくわしく知ることができる。それによると、1階は19室で、信長が暮らす12畳敷きの「御座間」や、同じく12畳敷きの対面の間、8畳敷きの控えの間などがあった。

2階は14室で、24畳敷きの広間や20畳敷きの座敷などがあった。3階は畳敷きの部屋が7つ、板敷きの部屋が3つの10室である。また3階には泥壁仕上げの畳敷きの部屋があって、これは茶室だったと思われる。

4階は屋根裏部屋で、4畳半の部屋が2つある。5階は塔の部分にあたり、八角形になっていて、外側には縁・勾欄(こうらん)がめぐっていた。最上層の6階も5階と同じく塔の部分で、5階の四間四方より1回り狭い三間四方で構成されている。また6階も縁がとりまいている。

このように安土城の天主は地上が6階あり、地階の石倉を入れると7階で構成されている。4階の屋根裏部屋は外観にはあらわれないので、外観5層、内部7重といういい方をすることが多い。秀吉の大坂城天守にもこのような高層建築が引きつがれることになるが、大坂城の場合は「天主」ではなく「天守」の字が使われ、以降それが一般的となる。

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