「格差は不当」と憤る人が気づいてない過酷な摂理 完全に自由な自由主義経済である限り不平等に
さらに、不平等な処遇(すなわちルール)で配分したときには、以前のように処遇されたときより大きな格差が配分に生じる。このため、前記の「因果応報」が、繰り返し連鎖すると(よい結果を得るたびに、さらに勝者に有利なルールになることが繰り返されると)、格差がどんどん大きくなって、極端な分配になってしまう。
これもコンピューターでシミュレーションを行えば、目に見える形で確認することもできる(図(c)および(d))。
因果応報の連鎖が繰り返されるほどに、持てる者と持たざる者の格差が桁違いに大きくなっていき、連鎖が何回か繰り返されるだけで、実際の所得の格差に近い、極端に偏った分布になる。ここでも、生じた極端な格差には何の理由もない。敢えていえば、この社会の「因果応報」の連鎖によって、エントロピーの増大という自然の営みが繰り返され、その格差を生む効果が増幅されたのである。
連鎖の長さだけで決まる
実はこの格差の大きさは、連鎖の長さだけで決まる。途中にどんな変数が効いているかは関係ないことが数学的に示されている。だから、この世に因果応報があり、エントロピーの増大がある限り、極端な格差は避けられない。格差に特定の理由はいらないのである。
だからこそ、平等の実現には原因となる行動が必要で、意識的な行動が必要なのである。すでに、累進課税や相続税のような平等に近づけるための行動はある程度行われている。 しかし、格差が増大する現実を見るとそれではまだ足りないのだ。
フランス革命のスローガン「自由・平等・友愛」の「自由」と「平等」を両立させることは、原理的にできないのだ。つねにトレードオフの関係にある。そのどこの点を目指すのかを決めるのはわれわれだ。
われわれは、この平等に向けた行動をどこまでするべきだろうか。経済学や既存の資本主義の枠組みだけでは、これに答えることは原理的にできない。われわれは、その外に新たな枠組みを構築する必要がある。
これこそが、人の幸せの追求である。その意味でも、前回の記事(「幸せな組織をつくれる人と不幸にする人の決定差」2021年5月15日配信)で解説したような「幸せの科学」こそが、今後の社会を論じるための最も基本的な基盤になると考える。それにより、どこまでの自由が、あるいは平等が、最も幸せを高めるのかという重要な問いに迫れる。このような客観的なデータによって、格差に関しイデオロギーを超えた議論が可能になると思う。
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