高杉良82歳、経済の深淵を描き続けた男の快活人生 自伝「破天荒」は最後の作品になるかもしれない
取材される側のビジネスマンたちはみな、「頭が高い」「生意気」「何様のつもりだ」と、時には声を荒らげる。そうしながらも、次第に若く背も高く健全に「図々しい」亮平のような存在を面白がり、自分たちが人生を賭して関わるプロジェクト、張り巡らされる権謀術数や駆け引き、業界の表裏を話し始めたのだという。
石油化学分野は、当時の花形である。戦後経済の「青春期」を疾走する彼らと、負けじと併走する亮平との、日本の経済を動かしているのは自分たちだという刺激に満ちた共犯関係。「ホワイトカラー」の彼らは亮平の記事のファンとなり、仲間となり、やがて亮平が小説家・高杉良へと転身し、彼らの職業人としての物語を経済小説に編み、大舞台と呼べる媒体で次々と発表していくのを、陰になり日向になり応援する。興銀頭取を務めた中山素平、次官まで上り詰めた通産官僚の牧野力など、人生を通して高杉と親交の深い著名な経済人も数多い。
「通産省なんて、最初は相手にしてくれないですよね。ところが文章を読んで、化学一課長にしても、総括班長にしても、みんな『こいつはやるな』と仲良くなるわけですよ。牧野力さんとは年齢も同じだったし、大いに意気投合したね」
「選ばれた人たちは自分のことなんて考えてなかった」
あの時代の経済人には気概やダイナミズムがあったと高杉は振り返る。「昭和っていうのは、大正がずっこけたところに戦争や敗戦があって、激動期だからこそ頑張らねばという人材がたくさんいたわけですよ。あの時代はやっぱり今と違うね。一部のエリートというのかな、選ばれた人たちがいて、自分のことなんか考えないですよ。日本国としてはどうあるべきか、国家観、国家としてどうあったらよいのかと。今そんなのないもん。新聞記者だってやっぱり小粒化しているしね。あの時代には激しさがあって、面白かったね」
そんな多忙な記者生活のツケであろうか、高杉は1974年35歳の夏に急性肝炎で入院した。だが、ただで転ぶ男ではない。自宅療養中に「暇で暇でどうしようもなくて」原稿用紙500枚以上にもなる小説を書いた。出光興産の内部告発ではないのかとも誤解されたほど詳細でセンセーショナルなその原稿は、高杉良のデビュー作『虚構の城』として翌年に講談社から刊行され、大変な反響を呼んだ。もちろん社内外のやっかみも凄かったが、「さすが杉田さんだ」との見方をする人も少なくなかったという。
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