高杉良82歳、経済の深淵を描き続けた男の快活人生 自伝「破天荒」は最後の作品になるかもしれない
『破天荒』は、杉田亮平が昭和33年、石油化学新聞社に採用された場面から始まる。実の両親が不仲から離婚、実父が新しい妻と築いた家庭へ不本意に身を寄せていた亮平は、父と義理の母から露骨に「早く働いて、生活費を稼げ」とのプレッシャーをかけられていた。
今から60年以上も昔の話とはいえ、有名大卒者ばかりの業界で、当時の亮平の19歳という年齢を考えればどうしたって不利と思われる新聞記者。当時の上司に「この場限りだよ」と勧められるままに「高校中退」という履歴書の学歴欄を「高校卒業」へ書き直すくだりには、野性味あふれる戦後らしい実力主義のおおらかさの中に、亮平の、そうはいっても長年心の片隅にくすぶっていた複雑な思いがこれを吐露させたとの印象も受ける。
だがその実力を認められて82人の応募者の中からたった2人、抜擢と呼べる入社へ漕ぎ着けた彼は、自分の賢さも他を圧倒する筆力も、十分に承知していた。
「ここにいる誰よりも筆力も取材力もあると思います」。当時、そんな生意気を言ったのは若さゆえ。だが周囲はじきに亮平が次々と生む圧倒的なスクープ記事を目にして、これは本物だと舌を巻く。石油化学新聞社創業者から直々に褒められたという高校時代の処女小説『自転車』や、記者としての試用期間中に書いた川崎の石油化学コンビナートのルポなどは、原文のまま本書にも掲載されている。それらは亮平が10代で書いたものであることに、現代の私たちは驚きを禁じえない。
戦後経済のうねるダイナミズムの中に生きた人々
亮平(高杉)は、取材相手となる巨大な企業にも官庁にも臆しなかった。「僕は知りたがりなんだよ。どうしてこんなことになっちゃうんだ?どうしてなんだ?というね。好奇心の強さでは僕は誰にも負けないぐらい強いよ。知らないからこそ、取材するんだ」。
記者クラブには馴染めず、独自取材を展開した。他紙には負けない。専門紙の記者であるとの矜持を胸に経済界の人脈に飛び込み、年上であろうが同年代であろうが、ビジネスマンたちの懐へするりと潜りこんで「自分の記事を日経新聞に追随させる」ほどのスクープを飛ばす。
現役記者時代の亮平は、大手化学会社の日本合成ゴム(現・JSR)、日本石油化学(現・新日本石油化学)、日本触媒化学工業(現・日本触媒)、日本ゼオン、昭和電工、東洋曹達工業(現・東ソー)、それらを監督する通産省(当時)、そして石油化学業界の資金調達に深く入りこんだ興銀……、数え切れぬほどの大企業・大組織の中を泳いだ。日本企業の石油化学プラント建設を追って、「交通費は自分で広告を取って捻出するから」とホメイニ革命途上のイラン・バンダルホメイニ取材も強行した。
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