やたら敵作る「徳川慶喜」期待を何度も裏切る真意 開国派なのに暴言吐いて攘夷望む朝廷側で奮闘
「この3人は天下の大愚物なのに、宮さまはなぜご信用あそばすのですか?」
呆気にとられたことだろう。中川宮邸で宴席を開いたときのことである。酔っぱらった慶喜が突然、慶永、宗城、そして、久光のことを「大愚物」と罵倒したのである。
いったい何があったのか。意見が分かれていたのは「横浜鎖港問題」である。これは、日米修好通商条約に基づいて開いた横浜港を閉じてほしい、という朝廷から幕府への要求で、問題点はいつもと同じ。外国と結ばされた条約に従って開国の状態を続けるか、それとも、条約を破棄して鎖国に踏みきるかという議論である。
もともと開国論者である久光、宗城はもちろん、一時期は攘夷派となったが開国派に転じた慶永は、いったん開けた横浜港を、再び閉じるのは不可能だという立場をとる。
慶喜も本音は開国論者で、攘夷の思想には、散々な目に遭わされてきた。もちろん、3人に同調する……かと思いきや、なんと慶喜は反対。朝廷と同じく攘夷の立場に立ったのだ。そしてとどめをさすかのような、この暴言である。あわてた慶永は泥酔している慶喜をつまみだしている。
慶喜の立場を完全に理解できていなかった慶永
「慶喜の乱」といえば大げさだろうか。この暴挙の理由にはさまざまな説がある。国内を安定させるべく攘夷派に配慮をしたのでは、という考えもあれば、攘夷を希望する朝廷に遠慮したのではないかという考えもある。
おそらくいずれも正しいが、いちばんの理由は、薩摩藩が政治を主導するのが気に食わなかったのだろう。慶永も気をつけていたところだが、慶喜の立場を完全に理解できてはいなかった。というのも、諸藩の有力者たちはそれぞれの勢力基盤がある。だが、慶喜の後ろ盾は徳川家である。参与会議が力を持つことは、自身の影響力を失うことでもある。
とりわけ薩摩藩が急速に権勢をふるい始めている。これ以上、久光が天皇に近づくことのないように、わざと暴言を吐いて参与会議をぶっ壊したというのが、真相に近いのだろう。
慶喜は邸に帰ると、侍臣たちにこんなふうに語った。
「今日は愉快、愉快。大技計をぶちこわしたのは痛快の至り」
技計とは、薩摩藩がイニシアチブを握ろうとしていたことを指す。家来も「烈公(父の徳川斉昭)の神霊が乗り移られたのか」とみな感服。酒を飲み直して盛り上がったというから、よほど薩摩へのうっぷんがたまっていたようだ。
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