やたら敵作る「徳川慶喜」期待を何度も裏切る真意 開国派なのに暴言吐いて攘夷望む朝廷側で奮闘

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というのも、政事総裁職を務めた松平慶永(春嶽)が帰ってしまったので、京に残された家茂と慶喜は、尊王攘夷派のサンドバッグ状態である。好き放題言われながら、慶喜と家茂は京から出られず、人質のようになってしまった。

実際に、将軍が江戸に帰るのを朝廷から何度も止められている。行列が出発してから、御所に呼びつけられることすらあった。なるべく長く京にとどめて、将軍の失墜を世に知らしめようとしたのだろう。

ところが、攘夷の期限について、慶喜が「将軍が江戸に帰ってから20日後」としたために、帰してもらえなければ、攘夷はできないという理屈になる。その点では、攘夷の期日を延ばすことに成功したといえよう。

朝廷からすれば、攘夷が実行されなければ困る。そのため、4月21日には家茂が、22日には慶喜が江戸に無事に帰還できた。人を食った慶喜らしい切り抜け方である。もちろん、攘夷などやるつもりは毛頭なく、約束の5月10日に攘夷を決行したのは、下関の海峡を通る外国船を砲撃した長州藩だけだった。

ようやく戻ったら老中たちから批判

江戸に戻った慶喜を待っていたのは、自分ばかりを批判する老中たちである。慶喜が京都でどれほどの目に遭ったのかは知ろうともしない。我慢の限界とばかりに、慶喜が将軍後見職の辞職願を出すのも無理からぬことだろう。

だが、文久3(1863)年11月26日、慶喜は再び上洛を果たす。横浜鎖港問題の対応を決めるためである。この問題については後述するが、これから国をどうしていくのか。そのことを議論するには結局、慶喜の存在が必要不可欠なのである。

「やれやれ」という慶喜のうんざり顔が思い浮かぶようだが、まんざらでもなかったかもしれない。いつだって、慶喜はやる気がないわけではない。ただ、利用されることに慎重で、あくまでも自分のやりたいようにできる体制を目指したのである。お飾りになることだけは、耐えられなかったのだ。

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