日本のスポーツが「苦行」をベースに発展した訳 ドイツと日本で考える文化としてのスポーツ

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高松:明治時代、日本にスポーツが入ってきます。「道(どう)」という考え方が影響したのでしょうね。サッカーのように「流れのあるもの」よりも、「苦行的なもの」を推奨されたときいています。

上田:そうですね。笑ったり、興じては駄目だと言われてきました。

高松:この考え方、ベースボールにまで「道」をつけて「野球道」なんていう言葉になった。私自身、『巨人の星』などのスポ根まんがが普通にあった世代ですので、「野球道」も感覚的にはわかる。一方、スポーツの定義を見ると、「あそびである」なんて説明もあるでしょ。これがなかなかわからない。でもね、ドイツのスポーツを見たとき、「あそび」という説明がストンと腹に落ちた。

上田:日本人が捉えている「あそび」とは、笑いや興じる行為を指します。ドイツの場合、余暇における娯楽、つまり人生の余白の意味での「あそび」ではないかと。

高松:同感です。

滅私や利他の精神文化が影響したスポーツ観

上田:プロテスタント的な世俗的禁欲が勤勉な労働につながったというマックス・ヴェーバーの議論がありますよね。そういう労働観の以前に、日本の場合は古から、滅私や利他という精神文化があります。

高松:そうですね。

上田:スポーツにみられる「あそび」の概念がなかったために、この精神文化に合わせようとする「見えない力」が働いたのではないかと考えています。そのため「野球道」のように崇高にする必要があったのではないかと。

高松:そういう「見えない力」というのが、結果的にスポーツの誤訳・誤読につながったともいえそうです。

上田:はい。当時は富国強兵の時代です。殺戮の技法としての武術が道へ転換される以前から、命の尊厳に関わる勝負を行うにあたって滅私や利他の精神が見られます。一方、スポーツにも熱狂や興奮をもたらすGameによる勝負があります。スポーツが教育の技法として広く使われるにあたって、この「勝負」という共通項から、日本独自の精神文化という「見えない力」が大きな影響を及ぼした。そして、日本人のスポーツ観ができあがってきたことがみられます。

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