日本のスポーツが「苦行」をベースに発展した訳 ドイツと日本で考える文化としてのスポーツ
高松:私はもともとスポーツに関心はそれほどなく、地方都市の発展をテーマにしてきました。ドイツというのは小さな都市でも元気なところが多い。取材を続けていると、その理由もすこしづつわかってきました。
上田:スポーツクラブが大きなカギとなっているようですか?
高松:はい。クラブがすべてというわけではないですが、多様で重層的な人間の繋がりはカギです。私が住む11万人の町でも100程度のクラブがある。これらはスポーツを軸にしたコミュニティで、地域社会を作るエンジンのひとつになっている。裏を返すと、それが地域社会にとってのスポーツの価値です。
上田:スポーツの価値そのものはたくさんあり、ヨーロッパでも明確に言語化するのは難しいというのが私の理解です。それでも、確かに人と人をつなげる文化の接着剤であり社会の潤滑油になっていますよね。
高松:ラランジャもそうですね。
上田:ここがおもしろくて、スポーツを軸にしたコミュニティとか、スポーツの価値といった話になると皆さんちょっとわかりにくいと感じられるのか、ラランジャについて「何を目標としているの」といった質問をよく受けます。
高松:大上段に構えると難しい。
上田:そうなんです。もっと自然に、スポーツというものに関わっていることで人々が「生」を感じ、自然に教育的な作用が生まれてくるといいなと思います。
高松:明確な言語化はされていないが、それでうまくやっていけるようなところがあると。
言語化したとたん「行間を読む」日本
上田:そうですね。「見える化」していくというやり方は、欧州などは明確で効果的です。それは大切ではあるし、欧州のそういうやり方を理解する必要はあります。しかし、日本は言語化したとたん、空気を読むかのように、行間を読んでしまうんです。これがいいところでもあり、悪いところでもあります。
高松:日本で積み重なってできている、理解やコミュニケーション、物事の進め方があります。そういうものが集団で、しかも無意識に出てきますね。
上田:はい。ドイツをはじめ、海外の様子を見るのはいいことだと思います。それを「すごい、すごい」と言って終わらせるのではなく、絶好の比較の材料とすることが大事ではないかと。日本の昔から積み重ねてきたものを意識することにもつながります。そういうことができる人が育まれる空間をつくりたいと思っています。
高松:大学の先生としては理論的にそういうことを教える。そして、ラランジャでは実際の活動を通して、色々なことに気づく感度を高めることや、考える態度をこどもたちにつけてもらうということでしょうか。すばらしいですね。
上田:いえいえ。見える槍や見えない槍が飛んできたり、行間に挟まれて押しつぶされそうになって大変ではございますけど(笑)。
高松:試合に出たり、勝つことに集中するだけのスポーツはいかにももったいない。スポーツを文化としてとらえていくと、まわりにまわって社会そのものにダイナミズムが生まれるような気がします。ありがとうございました。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら