日本のスポーツが「苦行」をベースに発展した訳 ドイツと日本で考える文化としてのスポーツ

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高松:よく「フットボール」と「サッカー」は違うんだ、ということをおっしゃっていますね。このあたりを詳しく教えてください。

上田:日本の場合、スポーツは外来のものとして輸入されました。そこでは文化というより、競技や身体性のところだけに焦点があてられて広がった。

高松:日本は近代化のときに、西洋からいろんなものを輸入していますが、歴史的記憶や文脈の理解がないまま入ってくる。そのため広い意味での誤訳や誤読が生じているものも多い。

上田:サッカーもそういうことです。「フットボール」はそれぞれの、楽しみ方を源に人々が集まってくる。ところが日本は身体活動としてのプレーや技術的なものを高めるところに集中してしまいました。これが「サッカー」です。私が言う「フットボール」はその上位概念となります。

高松:なるほど。

上田:そこには、民族や人種、ジェンダーといった、さまざまな違いがあることが自然であるという考え方が含まれています。個人的には、わが国のスポーツ基本法にも含まれている「する」「みる」「ささえる」という表現は好きではないのですが、これらを包括してさらに深く、広いものを含んでいるのが「フットボール」と分けています。

暴力的な闘争をルール化したスポーツの発展

高松:19世紀のドイツで、フリードリッヒ・ヤーンという人がドイツ体操(トゥルネン)というものをはじめました。時代背景をよく見ないと理解しづらいのですが、体操だけでなく、読書会をしたり、討論会や遠足、あるいは鬼ごっこのようなあそびなどもしている。体操を軸にいろんなことをしています。一種のドイツの身体文化といってもいい。「フットボール」とよく似ていますね。

上田:なるほど。近代スポーツが発生した英国を見ると、国を治めるための議会制度の成立は、人々の対立を暴力ではなく、議論によって解決する民主化のかたちが見られます。スポーツも同様で、暴力的な闘争をルール化してきたのです。

高松:「非暴力の形」になる発展経緯がある。

上田:はい。社会学者のノルベルト・エリアスが言っているのですが、こういう発展は議会制度よりもスポーツのほうがちょっと先に芽生えてきたと。民衆の中には熱狂や興奮があるわけですが、これを人々の中で制御していくための自律と自立という積み重ねがあった。こういう経緯を考えると、「プレー」「技術」を指すサッカーと、発展経緯を含めた人々の営みから編み出された文化の概念を含んだフットボールと分けて考えておいたほうがいいと思うのです。

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