戦国最強の上杉謙信が「義の心」貫いた深い理由 宿敵の武田信玄も「信頼していい人物」と評価
ただ、実際には合戦で使われたことがないと見られている。というのも現品調査によると、実践用の防具につきものの「使用痕」がほとんどなく、太刀掛韋も付していないことから、儀礼用である可能性が高いという。
信濃北部には「飯綱山」と「飯綱神社」があるように、飯綱信仰の源泉地であった。するとこの甲冑は謙信が、川中島合戦に赴く際、現地諸士や民間人の協力を得るため、その信仰を最大限に尊重する姿勢を示すのに用いたのだろう。出陣式や社参の場で「祭りなら、俺の中にある」とばかりに、着用したと考えられる。
ただし、単なるポーズではなかったはずだ。なぜなら永禄3~4(1560~1561)年の越山で関東全土の諸士が味方となっているからだ。このとき謙信は関東の大名に「依怙(えこ)による弓箭(ゆみや)は取らず、ただ筋目をもってどこだろうと合力していく」と豪語しており(永禄3[1560]年4月28日付佐竹義昭宛書状)、義戦であることを強調している。
これが口先だけのものならば、気骨ある関東武士が謙信のもとに集まろうはずがない。越山当時、関東の僧侶も謙信は信心深いので期待できるという世評を書き残している。
効果的な宣伝戦の仕組みを学んだ
こうした評価は、現地を疎かにしない敬意の払い方を、信濃で継続してきた成果だろう。謙信は川中島を介して、効果的な宣伝戦の仕組みを学び、それを実践することで、自らのブランド力を固めていたのである。
そもそも利害で人の心を操る技量で、信玄にかなうわけがない。ポーズや格好だけそれらしく飾ったところで、現地の支持を得られることもない。そこで謙信は、その装いに説得力を与えるため、普段からの言動が善であり、美であるように心掛けていったと考えられる。
謙信のプロパガンダとは、表層的な評価の獲得ではなく、奥底から人々を心服させる精神性の誇示にあった。その後も謙信は「義」の一文字に恥じない行動を心がけていた。
人々を制度や圧力で屈服させるのではなく、おのれの個性を惚れ込んでもらうことで、自発的に服属してもらえるよう努めたのだ。
公的な守護だった信玄に、私的な権力者である自分が立ち向かうにおいて、必要なのは他者からの支持であり、その獲得のためには、人間の心に向けてだけでなく、神仏の心をも納得させるプロパガンダとして、「真なるもの善なるもの美しいもの」の追求と実践が欠かせなかったのである。
こうして戦国乱世に「義将」の誕生という奇跡が生まれた。
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