戦国最強の上杉謙信が「義の心」貫いた深い理由 宿敵の武田信玄も「信頼していい人物」と評価

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わたしは謙信の宣伝戦の効果であると思う。宣伝戦というと、現代的なプロパガンダを想像する人も多いだろう。プロパガンダの語源は、17世紀のキリスト教組織が異教徒に信仰を普及させる運動にあると聞く。もともとは軍事や戦略とは関係なく、「真なるもの善なるもの美しきもの」を伝えるためのものであった。

そういう意味では謙信のプロパガンダも、現代的なイメージ操作とは少し違い、語源どおり宗教的色彩が色濃いように思われる。謙信は、当時としても異質な宣伝戦を採っていた。それは、義の心による波紋の広がりである。普遍的に人間の胸を打つ、精神の実践に注力したのである。

若い頃の謙信は、その権力基盤が脆弱だった。なにせ長男ではなかった。つまり国主、大名になる予定などなかったのである。

長男の長尾晴景は病弱だった

越後は上杉定実という守護職がトップにいた。ところが謙信の父である長尾為景(ためかげ)がその実権を奪い、専制的な行政を行うようになった。やがて為景が亡くなり、長男の長尾晴景が跡を継いだ。晴景は病弱だった。満足に国政を執ることができず、大きな謀反が起こった。晴景にはこれを鎮圧する力がない。そこでやむなく弟の謙信が出征した。

14歳ごろから「代々之軍刀」をもって戦場を疾駆してきただけあり、これを即座に鎮圧できた。鮮やかな手並に長尾家臣たちは目を見張った。かれらは謙信にこの国を統治してほしいと願い、晴景の家督移譲を支援した。

謙信はこれを私利私欲の“下克上”と思われたくないと考えたらしい。兄の幼い長男を養子にするという約束で、中継ぎ当主の座についた。それで“生涯不犯”を通したのだ。

ほどなくして、守護職の定実が老齢で亡くなった。跡継ぎはいなかった。その頃、将軍から国主待遇を与えることが約束されたが、ついで引退した兄・晴景も病没した。さらにその長男も体力がなかったらしく、幼くして早世した。

すると謙信は、「単に多くの国内領主たちから支持されている」ことと「将軍から国主にしか使えない白傘袋(しろかさぶくろ)と毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)の使用許可を与えられた」という以外に、確たる法的根拠のないまま、国政を担うことになった。社長が永久不在と確定した状態のまま、専務取締役の肩書を続投するようなものである。

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