戦国最強の上杉謙信が「義の心」貫いた深い理由 宿敵の武田信玄も「信頼していい人物」と評価

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「義」に厚い人物だったといわれる上杉謙信の実像に迫ります(写真:そら/PIXTA)
群雄割拠の戦国時代、戦で敗けたことがほとんどなく、「戦国最強」とうたわれる越後(新潟)の武将、上杉謙信。数々の戦の中でもとくに有名なのが、甲斐(山梨)の武田信玄と5回にわたって激突した「川中島の戦い」だ。一方で、上杉は「義」に厚い人物としても知られる。その実像について、新著『謙信越山』を上梓した歴史家の乃至政彦氏が解説する。

上杉謙信との和睦を息子に勧めた武田信玄

元亀4(1573)年、甲斐の武田信玄は死を前にして、息子の勝頼に遺言を告げた。

「謙信と和睦せよ」

武田家にとって長年の宿敵である上杉謙信と停戦するよう伝えたのである。理詰めの思考を好む信玄は、続けてその理由も述べた。

「謙信は勇ましい武士だから心配はいらない。若いお前の弱みにつけこむこともないだろう。みんなで『頼む』とさえ言えば、間違いが起きることもない」

謙信の人格をずばりと評論して、後事を託すに値するとして言っているのだ。そして自らの後悔も告げた。

「わたしは大人気なかったので、謙信に『頼む』と言うことができず、とうとう和睦することができなかった」

だが勝頼ならできる──と信玄は考えたのだ。

「必ず謙信に『頼む』と言うのだ。そうすれば、お前に悪いことはしない。それが謙信という人間だ」とまで言った。

信玄は、人の弱点を探し出し、そこを攻めるのが得意な武将であった。謙信のこともよく観察して、その欠点を熟知していた。それでもなお若い息子には、信頼していい大将だと言い残したのである。

なぜ信玄は宿敵に、息子と家臣団──すなわち武田家──の未来を託す気持ちになったのだろうか。

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