戦国最強の上杉謙信が「義の心」貫いた深い理由 宿敵の武田信玄も「信頼していい人物」と評価

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弘治3(1557)年1月20日、謙信は信濃諸士の要請に応じて武田信玄との合戦を準備し、信濃の更級郡八幡宮に願文を捧げた。ここから第3次川中島合戦が始まる。

願文では「武田晴信(信玄)という佞臣は、ただ国を奪うためだけに信濃の諸士をことごとく滅ぼし、神社や仏塔まで破壊して民衆の悲嘆は何年も続いている」と信玄の信濃侵攻を非難し、「私的な遺恨はないが、信濃を助けるため闘争する」と宣言している。

先述したように、謙信は守護職なきその代役程度の身分で、越後を実効支配しているだけの私権力である。対する武田は甲斐守護職で、まったく正当な公権力である。

こうした格差を埋めるため、謙信は、普遍的な善悪を持ち出して武田家に対抗しようとしたのである。ここに、理想と現実を結ぶ概念として「義」の意識が芽生えた。

「義を持って不義を誅する」と表明

謙信が北信濃に出馬すると、小菅神社へ立願する5月10日付の文書で「義をもって不義を誅する」と自らの意気を表明した。

そしてこれまでの鬱屈をぶつけるかのごとく武田軍に肉薄した。8月には川中島北方の上野原(長野市上野)で戦闘した。合戦後、副将の長尾政景が家臣への感状に「勝利を得た」と記しているので、一定以上の戦果を得たと見られる。しかし、互いの勢力図は大きく変わることなく、両軍痛み分けのまま撤退した。

ここで注目すべきは、謙信の宣伝戦として、「義」が持ち出された事実である。謙信は正しい戦争と、そうでない戦争があるという考えの持ち主だった。このときよりそれを公的に明言するようになっていくのである。

謙信がここで自らを「義」、信玄を「不義」の側に置く根拠は、北信濃の諸士の要請に応じて、自分はどこまでも、かれら現地の人々と共にあるという立場を通したところにあるだろう。

ここで、大河ドラマ『武田信玄』で柴田恭兵演じる政虎が着用していた、飯綱(いづな)明神の前立てを誂(あつら)える甲冑を思い起こしてもらいたい。いろんなドラマや絵画で同形の前立て兜を着用した謙信の姿を見たことがあるだろう。

この武装には実際のモデルが実在する。上杉神社に保存されている「重文本小札色々縅腹巻(ほんこざねいろいろおどしはらまき)〔附〕黒漆塗具足(くろうるしぬりぐそく)」である。

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