日米同盟が試された3.11直後の知られざる実際 細野豪志氏×磯部晃一氏対談(後編)
磯部:自衛隊とアメリカ軍はしょっちゅう共同訓練をしていますので、平素から調整メカニズムはあるんです。他方、日米両政府となると日頃そういうことしませんよね。だから今後日米のNSC(国家安全保障会議)などがタイアップして、両政府がいろんな状況や認識を共有させておくことが非常に大事だと思います。
細野:原発事故の時も先にミリミリで始まって、それが政府全体に広がったというのは、順番として自然だったのかもしれませんね。背広組のトップの髙見澤さんは事務方ゆえにミリミリの関係を非常に大事にしている人だった。彼とは腹を割って話さなければならないと思ったので、こう伝えたんです。ミリミリでやることはここで共有しなくてよいと。例えば後にアメリカ軍のシーバーフ(CBIRF、化学・生物兵器事態対応部隊)が来日しましたが、具体的なオペレーションはあの日米合同調整会議では議論されなかった。ミリミリの部分は、他の省庁とは言葉も合わないし、考え方も違うわけだから。しかし、その他の情報は、きちんと全体に共有してほしいと。政府全体でやらなければいけないことがたくさんあるので、そこは理解してくれということで折り合った記憶があります。
磯部:ミリミリのところは別に伊藤危機管理監経由で細野補佐官へのラインができてましたね。
薄れつつある記憶を伝えていく
細野:そこのやり方ですよね。そうなってくると、最後は人だということにもなってくるんです。その場で、誰が責任ある立場に、どういう組織を作るかという要素は危機管理においてやはり最後は捨てきれない。
磯部:私もこの本の最後に書きましたけど、つくづく当時の防衛省・自衛隊は「人」に恵まれていたと。当然、いろんな軋轢や摩擦はありました、あの危機の最中ですから。でも大臣を頂点として、主要な幹部、そして自衛隊の幹部、それぞれが能力を発揮できるような環境にあったというか、人間関係がよかったのだと思うんです。それは大事だと思うし、当時の方に会うと、戦友という仲間意識がありますね。
細野:私もそれは残っています。ただ、そろそろ考えなければならないのは、もう10年経ちますよね。そうすると当時の記憶がある人は少なくなってくる。
磯部:記憶もだんだん薄れていきますし。
細野:防衛省の幹部の方の中でも、実体験として持っている人はもはや少ないですよね。意思決定に関わったという意味では。
磯部:それはもうほとんどいらっしゃらないと思います。
細野:そこをどう残していくかというのは極めて重要ですね。10年というのは長い、結構な時間ですよね。
磯部:風化しつつある。そういった意味で私は、関係者の記憶が鮮明なうちに聞き取りをさせていただいて、この本をまとめました。やはり言い伝えや教育が大事になる部分があると思うんです。私は統幕学校で陸海空自衛隊の幹部の皆さんに講義をさせていただいていて、その機会には必ず原発事故の時のいろんな教訓を話しています。ここで統幕長はどう決心したのか、政治と軍事の関係をどのように整合していったのかということは、講義をしていますね。
細野:それはぜひやっていただきたいです。幹部になる方々にきちんと伝えてもらいたいです。
磯部:「人」を育て、危機時における体験を伝承していくことは大事だと思います。
細野:今ちょうどコロナで日本は新しい危機にあります。この10年だけでも何回も大きな災害が発生し、パンデミックを経験している訳ですもんね。やはり日本は危機管理と向き合って行かなければならない国家なんですよね。これからもこの教訓を次に伝える役をやっていただきたいと思います。
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