日米同盟が試された3.11直後の知られざる実際 細野豪志氏×磯部晃一氏対談(後編)
日米合同会議の始まり
細野豪志(以下、細野):前編記事で、東日本大震災のとき、現場の混乱をどう乗り越えたかという話をしました。そうした中、始まったのが日米合同調整会議で、3月21日に正式にスタートしました。その前に、私もあるときからうすうす気付いていましたが、防衛省の中で日米の調整会議が行われていたわけですよね。磯部さんは参加されていましたか。
磯部晃一(以下、磯部):これはたしか最初は16日だったと思いますが、防衛政策局長のところで日米の関係者が集まったんですね。
細野:髙見澤將林さんですね。後の日米合同調整会議の防衛省の背広組のトップですよね。
磯部:16日の9時から原子力災害対策チーム会議という仮称で始めたんです。
細野:実はこれは、菅直人総理は知らなかった。
磯部:官邸にはこういう会議をしているということはメール等で報告はしていましたが、菅総理はご存じなかったようです、当時の関係者に聞くと。
細野:私はNRC(アメリカ原子力規制委員会)のチャールズ・カストー氏が来日した16日頃からアメリカ側と接触し、18日には長島昭久議員の仲介で(ジョン・V)ルース駐日アメリカ大使も含めて、関係者で会議をやっていましたが、そこで強く感じたのは、アメリカ側の強烈なフラストレーションでした。
ちょうど放水作業をやっている真っ最中だったのですが、実際に何が起こっているのかが彼らにはわからない。これでは、アメリカ人を守れないという思いもあったかもしれない。それを解消しなければいけないと強く思っていました。ちなみに、その時にやっていた防衛省の会議はどういう中身だったんですか。