日米同盟が試された3.11直後の知られざる実際 細野豪志氏×磯部晃一氏対談(後編)

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細野:原発事故でものすごく大きなダメージではありましたが、日本として事故に対応できたからよかったのであって、できていなければ、国家として半ば崩壊していた……。

磯部:原発がコントロールできてないとすると、瀬戸際だったかもしれませんね。

細野:そうするとアメリカは次にさまざまなことを考えた可能性はありますね。

磯部:当然考えていたと思います。

細野:考えざるをえなかったと言えるかもしれない。

つねに最悪のシナリオを考えていた

磯部:アメリカ軍はつねに最悪のことをすべて考えるということでいたと思います。

細野:実際、この前後で最悪のシナリオを近藤駿介原子力委員長に頼んで作ってもらいました。この議員会館の部屋ですよ。ここで、アメリカ側のシナリオと日本側のシナリオを交換したんです。極めて似てましたけど。4号機のプールが仮に空になった場合はどこまで広がるかというシミュレーションを彼らももうしていました。

磯部:アメリカ政府はいろんなシミュレーションをものすごくしっかりやる。おそらく、ローレンス・リバモア研究所や海軍の原子力機関で幾とおりものシミュレーションをやっていたのではないでしょうか。最終的には、ホルドレン大統領科学技術担当補佐官が総合的な判断をして、東京までは来ないだろうということでアメリカ側は収まったということです。

細野:1つ学ぶべきだと思うのは、科学者がアメリカで果たした役割です。日本でも原発事故の時にいろんな人がアドバイザーになりましたが、危機的な状況において判断できる科学者がいなかったことが混乱を招いた面があった。その人が言えばなんとか収まるという人はなかなかいない。

でも、アメリカ側にはホルドレン氏がいた。これは200マイル、50マイル論争の中でも非常に大きかったですよね。あそこで判断を間違っていたら、日米同盟は本当に危なかった。

最後に原発の危機が、同盟のあり方に残した教訓について伺いたいと思います。日米の調整機能を果たした日米合同調整会議とオペレーションとしてのトモダチ作戦は日米同盟の非常に大きな経験になりましたね。

磯部:2015年に改訂された「日米防衛協力の指針(ガイドライン)」に、当時の教訓をかなり反映することができたと思います。いちばんの教訓はホソノ・プロセスです。関係省庁が全部入って日米政府が一体となった調整の場が必要だということが原発事故の教訓を通じて明らかになったので、それをガイドラインの中に、「同盟調整メカニズム」という組織をきちんと規定したことが大きな成果だと思います。中でも、同盟調整グループはホソノ・プロセスのイメージに非常に近いものです。

細野:ガイドラインが改訂された後に、外務省の人からもそのことを指摘されたことがありました。あのプロセスが何らかの教訓になっていれば、それはすごくありがたいことです。ただ、日米ガイドラインが改訂されたあの2015年に、国会では例の安保法制で賛成反対とやっていたという痛恨の記憶もあるんです。あの失敗を経て私は野党を離れる決断をしたんですけれども。

実務を担った者として指摘しておきたいのは、日米の調整メカニズムは絶対必要ですが、画一的なものであってはならないということです。つまり事態によって当然プレーヤーも変わるので、メカニズムのあり方は柔軟にしておくことが重要だと思います。

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