気仙沼で復活を遂げたカフェ「復興10年」の奮闘 サンドウィッチマンがロケ後に被災した店は今

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実は「3.11」を小野寺氏は体験していない。当日の朝、輸出入の仕事でイタリア・ローマに飛び、発生時は機中にいたからだ。現地到着後に気仙沼の大惨事を知り、言葉を失う。

店や自宅は津波で被災したが、幸い、家族や店舗スタッフに人的被害はなかった。それをメールで確認すると、その後も当地に滞在。現地から取引先と連絡をとり、店再開への道を探る。メールが使えたのが不幸中の幸いで、ある程度の被災状況も把握することができた。輸出入の仕事を終えて約10日後に帰国。無我夢中で、正確な帰国日を覚えていないそうだ。

2012年に取材した際、小野寺氏は「でも、悔しいですよね」とつぶやいた。

「われわれはここで生きてきたので『津波は来るもの』と思っていた。現に一昨年(2010年)も津波はあったわけですし。でもこんなに大きいとは想像していませんでした」

被災後すぐに 「再び船出」を掲げた

なぜ、アンカーコーヒーは復活できたのだろうか。

まず感じるのは、小野寺氏の意欲だ。9年前に「悔しい」とつぶやいたのは一瞬で、当時から意気軒高だった。2012年の取材場所は、海岸から離れた「田中前」に構えた仮設店舗「アンカーコーヒー 田中前店」(2018年、内湾店の開業に伴い閉店)。その入口には、こんな言葉が掲げてあった。

「この地より再び船出する 乗組員と共に 気仙沼と共に 海と共に」

仮設店舗に掲げてあった「決意」の言葉(写真:オノデラコーポレーション)

震災直後、被害が軽微だった店から再開する一方、旧知の宮城県庁勤務の山田康人氏の発案による「復興ファンド」を共同で設立。これが評判を呼び、同社も2450万円の目標額を達成した。ファンドに寄せられた基金は、焙煎機や製菓の機械、内装費に充てた。

被災された方々は誠に気の毒で、今なお苦しむ人も多いが、当地を訪れて感じるのは「震災人脈」とも言うべき新たな出会いだ。

例えば、「ほぼ日刊イトイ新聞」(ほぼ日)を運営する糸井重里氏(コピーライター)は、震災の2011年11月11日に気仙沼支社を開設。インターネットサイト「気仙沼のほぼ日」を発信し続けた。2019年の同じ日で支社はなくなったが、小野寺氏と糸井氏は今でも交流がある。

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