コロナ医療逼迫を予見した経済学者・宇沢弘文 ベーシックインカム批判と「社会的共通資本」論
筆者からすると、この議論は、従来の「社会的共通資本」の議論よりもはるかに明快である。いくつかの前提に基づいてはいるものの、市場経済のもとでベーシックインカムの導入が必ずしも期待された結果をもたらさないという論理展開は、標準的なミクロ経済学の見事な応用であり、多くの経済学者の理解が得られると考えられる。
それにもかかわらず、なぜ宇沢は、「社会的共通資本」が「歴史的・社会的・経済的条件にもとづいて、社会的に決められる」(『自動車の社会的費用』)と述べ、これらの社会的共通資本の「社会的管理」を強調することから始めたのだろうか。
1つの理由は、これまで書いてきたような手続きを経ず社会的共通資本を語るほうが、一般にこの概念が受け入れられやすかったということがあるだろう。しかし第17章を読むと理由はそれだけでなかったことがわかる。
何が「必需財」か、民主主義では合意が難しい
宇沢は、一度は標準的な経済学のアプローチによって社会的共通資本の理論的基礎を考えたように見える。しかし分権的な市場経済と多様な個人の価値基準を認めた前提のもとで、何を必需財と考えるかということについて社会的な合意形成を得ることは、民主主義的なルールのもとでは不可能であるとする、アローの有名な「不可能性定理」と矛盾することになる。
確かに今回の新型コロナの感染拡大に関して、民主主義を基本とする国々で、なかなか感染防止策が定まらない状況は、アローの「不可能性定理」が単なる形式論理による帰結ではないということを教えてくれる。
ここに至り、宇沢は、「社会という概念はすでに、それを構成する主体の持つ倫理的要件にかんして共通の理解を持ち、社会的価値基準の形成について、個別的な主観的価値基準をどのように集計するかについて、すでにあるルールの存在を想定している」と述べ、個々の社会の歴史的、制度的な蓄積の下で何を社会的共通資本とするかを決めることができるとしている。
ただしこの時点で効率的な市場経済の補完としての社会的共通資本という位置づけではなく、社会的共通資本の整備による社会的安定性を議論の中心に据え、市場経済を脇役として位置づけているので、経済学上の資源配分論からは遠ざかることになる。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら