あのドラッカー絶賛「渋沢栄一」が凄い真の理由 ロスチャイルドやロックフェラーを凌ぐと評価

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渋沢栄一とドラッカーに共通する2点目は、「本質を見極めていた」ということである。彼らは事業において極めて重要なのが「専門的経営者」であることを見極めていた。

渋沢は彼の著書『青淵百話』の中で、起業に関する重要な4つの注意事項を挙げているが、その1つが「事業が成立したとき、その経営者に適当な人物がいるかどうかを考えること」である。渋沢は彼が創業に携わったすべての企業の経営を行ったわけではない。渋沢は事業を起こす際に、事業が始まるはるかに前から経営者となる優秀な人材を探している。

例えば、大阪紡績という事業を立ち上げる際には、津和野藩出身で当時ロンドン大学に留学していた山辺丈夫という人物に、渋沢自身が手紙を書き、経営者になるよう依頼している。だからこそ、500社もの会社を設立することができたのだ。

一方、ドラッカーは社会生態学者として、社会の本質を見極めることに天賦の才があり、社会の本質を見極めることを仕事としていた。ドラッカーはマネジメントの全体像とその本質を整理したことによって「マネジメントの父」と呼ばれるようになった。

ドラッカーはマネジメントの全体像とその本質を整理しただけでなく、変化の本質、未来の本質、そしてその未来の本質から導き出される未来創造の本質についても整理してくれている。

渋沢の心の奥底にあった官尊民卑への憤り

渋沢栄一とドラッカーに共通する3点目は、ある時点で「だれもやっていない新しい道を歩むことを決意した」ということだ。

渋沢栄一は、ただ単に民に出て事業を始めることを決意したのではなく、論語の道徳観をベースに、民に品位と才能のある人材を育てることを決意したのだった。渋沢は若いころから高い志を持っていた。彼の志の高さは論語や陽明学といった東洋思想の影響だったと思われる。ただ、渋沢栄一の心の奥底にあったのは、官尊民卑への憤りだった。

渋沢は農民だった若いころに、地元の代官から軽蔑され嘲弄される屈辱的な扱いを受けている。この不条理に対する憤りが、彼に武士になることの想いを起こさせた。さらに、西洋を訪れたときに、官と民の人間が対等に話しているのを見て、官尊民卑を打破したいという想いを強めていった。

渋沢が民に出ることを決意した際には、民に出ても「世間から軽蔑を受けて一生役人にあごで使われるだけだ」と慰留されるが、渋沢は決意を変えることはなかった。渋沢栄一、33歳のときである。

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