米国「南北戦争」で南軍を率いたリー将軍の実像 混沌とするアメリカ情勢下で改めて注目される
南北戦争最中の1863年初頭段階で、南部連合国の首都リッチモンドを包む空気は、意気軒昂そのものといった状況だった。理由はただ1つ。東部戦線(首都周辺の戦線)で南軍が勝利に次ぐ勝利を重ねていたからだった。
当時実は西部戦線や外交状況において、南部を取り巻く環境は深刻に悪化していたのだがリッチモンドはまさに目の前の勝利に酔っていた。
実際、ブルラン、半島作戦、第二次ブルランと、東部戦線の南軍は開戦以来、北軍に対して勝利し続けていた。アンティータムの戦いは戦術的には痛み分けであり、侵攻した南軍が殲滅されたわけでもない。
またアンティータムの戦いの後に行われたフレデリックスバーグの戦い(1862年12月11〜15日)は、北軍が堅固に構築された南軍の防御陣地に無謀な歩兵突撃を行い続け、投入兵力約12万人のうち1万2000人の死傷者を出して惨敗するという、南軍にとってのこの上ない失地回復となった戦いだった(南軍は約8万人を投入して死傷者数約5000人)。
南軍の戦意の中心にいたリー将軍
そんな後に出された北部合衆国の大統領エイブラハム・リンカーンの奴隷解放宣言(1863年1月)など、その内容の不徹底さもあって、リッチモンドには何の動揺ももたらさなかった。歴史家のサムエル・モリソンが言うように、奴隷解放宣言に接した南部人たちは「怒りに燃えてますます反抗への戦意をかきたてられた」のみで、ほとんど何の打撃も受けなかったのである。
その南軍の燃え上がる戦意の中心にいたのが、北バージニア軍司令、ロバート・エドワード・リー将軍だった。彼は「軽騎兵ハリー」の異名で知られた独立戦争の英雄、ヘンリー・リー将軍の息子で、妻のメアリは建国の父、ジョージ・ワシントンの(義理の)曽孫という名門出身であった。
南北戦争開戦前夜、リーは軍人であり、また広大な奴隷農園の主という、まごうことなき上流階級に属していたが、父のヘンリーは軍事以外には何のとりえもない男で、独立戦争後には借金まみれになって監獄に入ったこともある人物だった。
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